山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

長谷川白紙について考えたこと

https://youtu.be/mo9X4K0GHcs?feature=shared

#ピアノ演奏 #鼻歌 #きもい声

ようやく弾き語りしたと思ったら、右手で軽くコード押さえてるだけ。これが私の限界なのでした。きもい声で今日も楽しみました。ありがとうございます。

ちょっと長谷川白紙について思うことを書いてみます。

「エアにに」までの白紙氏の曲は、なんだかこんなふうに簡易的弾き語りを許すような感じのものがなくて、耳コピも大変なのですが、ある時期から、私のようなプレイヤー括弧藁がこんなふうに弾きながら歌えるような曲が作られるようになった印象です。このような部類の曲も、白紙氏の唯一無二の個性がしかと刻まれていて、聴くのも歌うのも楽しい、そんなものとなっています。

もっとも、ここで弾いてみた「禁物」にしても、ちゃんとまともに弾くには、16分×5と4分の4拍子のポリリズムに立ち向かう必要があり、またこれはDTM?の性質を活かして、さりげなくそれでしかできない表現のあり方となっています。生身の人間が16分×5を4分の4拍子のなかで持続して弾き続けることは、ボレロ以上の難しさを伴い、その割に演奏効果がさりげないもので、そしてまさにそういう役割をDTMというものが絶妙に担うことが可能になったということで、こういう表現の様式にも、世代精神的なものが感じられるところであります。生身の人間には難しいがその割に演奏効果がさりげない、この絶妙な需要をコンピューターが満たすというあり方は、白紙氏の曲で言えば「它会消失(ta1 hui4 xiao1 shi1)」や「悪魔」におけるポリリズムの実験などにみられるものです。さりげなさが単にさりげなさであり、演奏技巧上もさりげないものであれば、人間が演奏すればいいのですが、超絶難しいのに、さりげない、しかも必要なもの、なのだとすれば、それはコンピューターがやってくれる時代になりました。

例えばコンピューターによる文章の字数カウントの自動機能などは、まさにこういうニーズを満たしていると考えられます。これも人間がやれば必死にカウント作業する必要のあることですが、それをやったらやったでそれだけの報いがあるかというと、きっとそういうことにはならない場合が多いでしょう。原稿用紙というものも、あまり作家による間違い正しが多ければ、文字数の見当をつけることが難しくなりますよね。そういう訂正などもものともせず、正確な文字数をしっかり涼しくカウントしてくれるのが我らがWordですね。絶対の「オモテ」の必要ではないが、必要である、しかしその割に求められる作業質が難しいものである。こういうときに機械が活躍してくれます。

そして機械のこういう性質を活かして、表面的な華々しさではなく、ニッチな実験性を込めた表現を追求してゆくことが可能となりました。そこには確かな精神性の臨在がみられます。

ミニマルミュージックは、こうした機械性を各パートに分担させ、個々のパーツを一人一人が演奏できるようにしたものであるため、生身の人間でも演奏可能なものとなっているのですが、コンピューターはその難解な全体性を自分一つで全て包含してしまうことができます。その個々の入力そのものはシンプルですが、そこでは、その全体性を全体性として生身の空間において確かなものとして実現することが極めて難しいのです。コンピューターは個々のものを個々のものそのものとしてただ論理的に自動的に認識するまでですが、その個々のものの合成の結果の全体像を享受するのは、人間の心で、いわばこれは工場見学のもたらす独特の印象というものを想起すればわかりやすいかと思います。はじめに全体像を心に芸術的に宿して、それに基づいて作品を肉付けしてゆくという作業とは対照的に、このように個々のシンプルな入力を行えば結果としてどんな全体像が一つの全体的に印象として得られるのだろうかという創造的実験という態度があり得、それは全体像を肉の形ではなく概念的閃きの形で宿したものと言うこともできるのです。

そう考えてみると、モーツァルトが、あるいは、ジャミロクワイが、菅野よう子が、音楽の「全体像」が降りてきて、それを展開させることで作曲する、ということがらも、創造的全体性というものが単に肉の全体としてあるのではなく、未展開の創造的閃きという抽象物のようなものとして存在している段階があることを示しています。それはいわば創造的確信とも言うべき心のあり方とも一つであり、心理学的には、そのように言われるのがふさわしいでしょう。もっとも、当人たちには、その全体像が本当に「肉」として見えているのかもしれませんが、創造性というものの柔軟さというものによしかかるならば、上に述べたような実験における結果の「予期」のような形の閃きも、一種の創造的全体性の包含として認めることができるのではないかと思うのです。

発想は単純だけれど、実現するのには、生身の人間においては難しく、多大な努力を要するわりに、その効果が華やかでない、というこの地味さは、よく機械的努力に耐え得るある人種が多く今まで担ってきた役割です。確かに畑を耕すということを、「ただ発想する」ことは、誰でもできる。しかしそれを真にやりとげるには、生身の人間として、どれだけの努力を要するものか。ところが、コンピューターというものの登場によって、このような発想の単純さ(しかし得られる結果の複雑性)が、機械的結果として単純に出力されることが可能になってしまいました。5連符をずっと延々と弾き続けたい、そう発想するのは簡単だが、生身でやるとなかなか持続できない、これが機械では簡単に実現できてしまう。これはまるで、より複雑な発想を自由に展開して何でもありにせよ、と天が言っているようなものではないか。 

従来の複雑性、そして華やかさとは、どのようなものだったでしょうか。それは、それをやるだけの価値があること、やりがいのあること、と考えられることであり、それをやるのに、生身の人間の普通の程度に身につけられた機械性の能力のベースというものを背景にしなければなりませんでした。華やかさはいわばそのような生身の人間に身の丈にあった機械性の一つの肉塊の延長上にあったものと言えるのです。それぞれの機械性は、常に肉体的なものの常識的限界に枠づけられたものであり、したがってある項目を純粋に機械的に徹して実現するというのは、よほどの物好きか変態でないとそもそもなかったものなのです。そのために、さまざまな職務は、複雑に専門的に分化していったという経緯があります。しかしそれぞれの専門においても、生身の人間では、せいぜいこの常識的肉塊の定める制約がつきまとっており、そのため数学においても、計算量の問題が、コンピューター誕生の前の段階では、常につきまとっていました。現在においてはおそらく計算量の問題はコンピューターのぶっ壊れたその能力によって、従来の肉体的制約のもたらしたその障壁をいとも簡単に乗り越えたということができるでしょう(もっともコンピューターにも限界というものはありますが、それは我々の世界のコンピューターも一種の肉塊であり、純粋概念としてのコンピューターではないというところからくるものです)。したがって、従来における華やかさというのは、何か肉塊における能力的限界の延長上にあるもの、といういわば土臭さを抜けたものではなかったのです。それがコンピューターによって、ある意味奇形的に克服された面があるのです。本来ただ或るさりげない必要を満たしたものであった、そのコンピューターの能力は、そのあり方自体が自覚され、今度はこの性質を活かして、生身の人間には実現の困難な実験的創造性の閃きが入ってくる余地が出現しました。これはもともと華やかさが志向されたのではなく得られた創造性という観点から理解することができ、つまり機械的なものの機械的な性質そのものへの注目から、それに触発されて生まれてきた創造性という観点から理解でき、その全体像が、肉塊的延長上に発想されたものでなく、いわば純粋に概念の空間から、知的に、しばしば好奇的に、出現してきたものと言えるのです。これは本当に、この時代を生きるにあたって注目されるべきあり方だと思っています。

コンピューターに「やらせてみれば」いいじゃないか、これが合言葉のようなものです。我々は気軽にそれを試すことができます。そしてその全体像としての結果を、「ただちに」すなわち努力抜きに、享受することができ、ただちにプログラムの組み方の変更という形でこれにリアクションすることができます。

まあだいたいそんなところに、時代精神のようなもののカケラがあるな、と、長谷川白紙をきっかけに、拾ってみた、そんな感じです。