山中臨死境

なんか哲学と呼びたいものを中心として自己はみ出し

「日本語に主語はあるか」という動画を見て

「日本語に主語はあるか」

https://youtu.be/piuiNb8OSpI?si=3uQv829ho74aNi3a


という極めて興味深い動画に対しての私の感想を以下に置いておきます。尚以下の文章は、実際にYouTubeコメントとして残したものになります。

 

 

 

 

 

 

 

論理的には全ての言語に主語は存在するが、それが必ずしもわかりやすい形で表示されないという説を私は持っています。論理的にはというより論理学的にはという方が適切でしょう。(ラッセルの議論が非常に参考になりますがここには割愛させていただきます。)

こういうことを結論として述べるにはひとつひとつの言語をつぶさに調べてゆく必要はあるでしょうが、しかし「論理的」には、文と言いうるあらゆるものが主語を「論理的」には持たねばならないということになると思います。英語ですら、命令形の場合は、はっきりと「この語」として示された主語はないのに、命令形の性質から事実上そこに主語は明示されています。ラテン語の例文しかりです。 

日本語の場合は、が、とか、は、のような、主語を「それ自体が明示していそうな語」が存在するという点が少し厄介で、英語のHe is …のようにはっきりとこれは主語だなと言えるあり方と振る舞い上かぶっているところがあるだけに、慎重に議論が必要だと思います。

しかし、先験的に、論理的に、いかなる言語にも原則として主語がある、という根本原理(と大げさな言い方をしておきます)が存在するという観点からは、日本語のような主題優勢言語については、どんな形で主語が表示されるかということは、解答の付いてない数学問題集を解くような推論の楽しみによってその答えが見出さるべきものとなると思います。それがこの動画後半で説明されていたことでしょう。

日本語に主語がないという主張は、たぶん英文逐語訳を念頭に置いた上で、一見英語の主語に相当する場所にある語が、日本語の秩序としては実は必ずしもその形だけからは主語として限定できないこと(つまり「は」とか「が」が、それら自体主語以上のひろがりから本来理解されるべきこと)から主張されたことであり、文字通り日本語に論理的に原理的に主語が存在しないということが言われているわけではないのだと思います。

ただ日本語のような主題優勢型言語が存在するということは、哲学的に言えば、人間論理の本性として、主語的なものが必ずしも真に実在的とか主体的であるとは言えないことを示唆しており、主語的なものは必要であるにしてもその必要である「あり方」がむしろ述語的なものに対して従であるとも考えられるということです。日本語型のこのような言語の性質からは、西田幾多郎の「述語的なものの自己限定としての世界」というあり方もとい人間論理の本性への考えを彷彿とさせられます。

つまり主語なるものは日本語に存在しない、という主張それ自体が、(それが本当に真であるか偽であるかにかかわらず)大きな意味を持っていると考えられるのです。そしてそのことが主語優勢言語における命令形(Do it!)のようなあり方に密輸入されてひそかに確実に己の姿を開陳していると考えられるのです。

日本語において、主語が存在しないのではなく、述語を優位にした上で主語が付属するという傾向があるのではないかとも考えられます。

こうした問題の根源は人間世界そのものの振る舞い方、成り立ち方の本質的或る部分にまで行き着きます。鳥が鳴くでなく、鳴鳴なり、みたいな言葉があったと思います。哲学的には、主語的なものを、「述語的なものの自己限定」として捉える観点が、こうした問題に有効に絡んできうることを私は今確認いたしました。もっとも私の妄説である可能性もあるのですが、しかしこのような示唆をいただける多角的な視野をまとめた動画を作ってくださったことには感謝しかありません。