機転を効かせるとか、なかなか一般化しにくいが、ある種の人間にどうしても不思議に備わっている能力は、そういう意味において一般化されているとも言える。
石が石であるという単純な一般化や、数学的定理のような誰の目にも真として明らかな一般化は、対象的一般化とかノエマ的限定という枠で理解できる。
一方で魅力とか機転といった不思議な能力は、それ自体が一般的に認識されている事実でありながら、その内実に入ってゆくとき、例えば実際をそれを身につけようとするようなとき、その不思議さ、すり抜けさ、非対象性というものに臨接せざるを得ない。こういうものの一般化をノエシス的限定と言う。
ただしノエシス的限定というのを、ただ単に魅力とか機転といった対象から考えるのでは、その真の意義を明らかにしたことにはならない。そのような能力がまさに現前として生きて働いている今のうちに、それのノエシス的限定としての対象性がある。
だから石が石としてあるということも、ただ単にノエマ的限定的なもの、単に対象的なものではない。それがノエシス的限定の意義を持つのは、石が現前として語りかけてくるそのときであり、詩人はこの間の事情をよく知っている。
だからノエマ的なものがあって、それとは別にノエシス的なものがあると考えるのでは、それらは全て単にノエマ的なものであることになり、このあり方をノエシス的に見ると、それは陳腐とか停滞という名の一般者が与えられるものとなる。
ノエシス的なものというものを知るには、機転とか魅力というものについて、ああわかる、あのどうしてもなんともしがたい不思議なものだよね、という理解をキトキトと共有する必要がある。そもそもキトキトなる言葉の語感、その微妙なニュアンスというあり方自体が極めてノエシス的な何かなのである。
ノエシス値が低くなってきたとき、我々はしかし、ノエシス的なものを、ノエマ的なものとの対象的な並列的な陳腐な知識に頼って探っていく必要が出てきて、この場合その行き方はかえって有効なのである。大道廃れて仁義ありという言葉は、まさにこうした事情を的確に言い表している。儒教の対象的な形式的な秩序意識は、なるほど道教的玄妙さの秩序からみると、いかにも退歩的にすら見えるかもしれないが、まさしく大道廃れてのありようがそこにあるという有様が普通になってしまったならば、かえって、道教式の無の哲学はそのままでは有効でない、上善は水の如しといいながら、これは腐った水として端に追いやられることになる。むしろこうした状況では、丁寧に、形式的に、対象的に、秩序の構成要素とその立体的組織を定義してやり、その枠に収めてやるということから、秩序がいよいよ秩序として水のように働き出すことができるようになってくるのである。こういうのも実はノエシス的な働きから定義できる。ノエシス値の低さとは、ノエマ値の高さであり、ノエマ値の低さとはノエシス値の高さと言うことができる。こう言えばこの辺の事情はいかにも単純であるように思われる。
だが、ノエシス的と思っているあり方が、深く対象性に鎖取られているような場合がある。道教のような無の哲学の固定というあり方は、まさしくこのような幽界的有様を呼び起こす。そもそもノエシス的ありようが、魅力とか機転といった、言葉で表現できるものに担われて現れてきているのは、ノエマとノエシスが単純に別のものであるのではなく、ノエシスは対象のどこにも潜り込み得るものであり、ノエマはどんな迸る生命の裏にも覆い被さる死の灰でもあり得るということから来るのである。
全てのものがキトキトと生き合う世界とはどんなものかと言うと、単純にノエマ的なあり方に還元できるものでもなければ、ノエシス的に超脱するというあり方の内にあるのでもない。ノエシス値がただ低くてただノエマ値が高いということが固定されていたならば、むしろこれらの値はそこにおいて等しいことになり、これは矛盾である。需要供給曲線のように、これらの値は常にともにバランスをとりあって動き続けるものでなければならない。そうであってこそ、芸術は永遠のものの生命であることができる。芸術作品それ自体というより、芸術という営みが、しかも作品と切り離された営み自体というものがないように、そうした総体性が、真に永遠であり、また生まれ、死んでゆくものであることができる。死ぬということも循環であり、それ自体決して悲観されるべきことでは、本来ない。それは再び生まれるもののなかにエキスとして自らをより進化させた形で放り込むことになるのである。単に永遠としてノエマ的に生命というものを無理やり広げるならば、それは永遠という名の死の灰にすでに浸されていることになる。ならば永遠にはノエシス的にもそう言い得る側面がなければならない。ノエシス的永遠とは、むしろ絶対の刹那のことである。しかし刹那は繰り返され、それらの間に非連続の連続的な持続の関係があるからこそ、それは生命としての意味を持つことができる。そこから生命とは、種的持続であると捉えることができる。一つの刹那は、一つの個体の生死に過ぎない。しかし刹那と刹那とは持続的に結びついて、一つの種的生命として回転する、親から子へ、なのである。種とは、それ自体が対象の意味を持っていながら、同時に刹那と刹那との包括的持続者としてノエシス的生命の意義を有する。私の作品ということについて考えても、ある作品と別の作品はそれぞれ刹那でありながらも、私という種に包括されてそれは生命を持つ。刹那は刹那であるだけでは、かえって単なる微小のノエマに過ぎないが、刹那が刹那として生命の名を与えられるのは、刹那が包括的はみ出しの口であるからである。刹那は刹那をはみ出すことによって自らを真に生み出すのであるが、その生み出した結果がただ単に刹那という一発屋として終わるのでは、あまりに永遠という言葉の内義が虚しい、そうではなく、刹那は他の刹那と結びつきかつそれをはみ出すある個性的なものの表現となることにおいて生命の意味を持つ。個性的なもの、例えば私というものが、一面ノエマ的なものであることにおいて、それら刹那る作品たちは、生まれ出るものという資格を持つ。しかしそれが私の表現極として、私が単にノエマ的なものを越え出るその刹那となり切ることにおいてそれはまさしく生命の意味を持つことになる。作品には私が必要であるし、私には作品が必要なのである。
この構図は、ノエシス的一般者をひとまずノエマ的並列的知識から発想したものであり、あたかもコイルと磁石によって回るモーターのような関係で、この構図を単にそういうものとして固定するだけではそれの持つ力は全くわからない、動かしてみてその有り難さを知るというあり方によってしが理解できないものである。
ノエシス的一般者は、常にノエマ化することによって、ノエシス値を下げるということが伴わねばならない。そうであって、真に創造的に、ノエシス値を爆上げとして、我々の生きたキトキトの眼差しと行為がそこに現れてくるのである。機転とか魅力というものは、この捉えられなさと、逆説的に、そうだよねそういうものだよねという信頼をともに持っている。それはノエシス的限定ということを述べるのに相応しい例であり、しかしChatGPTをはじめとするAIがすでにこうした能力を持ち始めているということは、こうしたあり方も実はノエマのある意味死の灰に覆われているということも意味するのであって、我々は常に考え続け、この灰から再び生まれる不死鳥として自らを励ます必要がある。できる、お前ならやれる。我々にはノエシス的修造が是非とも必要である。