山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

表現者のコテとしての主語

https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2025/04/21/151045

「身体を持って生きるという大事業」


今回は上掲のものの補論となる。


物体を自然の主語と捉える。機能を持たせるという意味での精神的な主語は人間の認識に依存するが、客観的自然の働きのなかにおいては機能というものが物体ないし生体の単位で持たされる。自然的認識において物体が物体として自然に立ち現れてくるのは、自然の機構が機能としての主語性を物体ないし生体という単位で持たせているからである。しかし本体は述語的なものにあるが故にそれらの主語は常に最終的の何かではない、それをきっかけとしてそれを足がかりとしてまたそれを使って何かを作るためのものとなる。自然そのものの機構と考えられるもののうちでも、例えば植物の生体の組織の総体はそれ自体が主語的に最終的の意味ではなく、真に本体と言えるのは、述語的に、人間的存在をまで含んだ生命のはずみの自己表現の体系ということになる。さらにはこの人間的存在というあり方も主語的に最終的のものでなく、常に意味の創造的更新を含んでおり、それが無限の制作の活動として表現される。もっとも制作とは単にいわゆる制作に限ったものでなく、あらゆる形で、あらゆる仕方の形が生まれることを言うのである。植物の本体とはすでにそういう意味を含んでおらねばならないが、植物の主語にはひとまずそういう意味を含んでおらずともよい。主語は機能であるから、はじめにこれを全体として語ったものというものがあっても、あとから意味・意義を更新してそこに語られる、意味が含まれてゆくということがあってもよい。主語的なものは、ひとまずの全体性の枠を作るものに過ぎず、真の総体性をそれによって規定するものではない。ラプラス的認識においても、最終的なる物体の本質は、宇宙大スケールの数式の途方もない体系を自己に表現するものとして述語的に理解されるのであり、物体という主語がその振る舞いを古い物理学の枠において記述されるものとして限定されるのであっても、主語の主語としての本性はもともと失われない。真の主語があるなどと発想する必要はなく、真の本体はいつでも述語的にしか存在せず、そして述語的あり方とはいつでもただ単にそれ自体として最終的な本質を表面に表すものではなく、そのあり方によってまさにそれは最終的なものであることができるのである。

主語とは、ひとまずの認識の境界線を示すものである。本質的主語はもはや(西田の言う)述語的なるものの自己限定という形でしか存在しない。それは創造的にのみ掴まれうるので、主語的なものによって限定することはできない。主語的なものは述語に本体を持つが、それはその述語的なるものに公向きの本体ヅラを与えているものと言うことができる。それは述語的なものを覆い切れるものではない。覆いきれないものとして、ひとまずそこにおいて述語的なものを限定的に表現するからこそ、真の主語はいつでも超越的であり(それはいわゆる主語ではない)、述語的なるものがこの限定に応じて新たな創造の脈を見つけるのである。このような語り方は主語的な論理の形式を借りてはいるが、実際には述語という主語があるものとして考えられるべきではない。その機微はここで語ったよりももっと微妙なものである。

こういうのべ方は、実のところ、全て「行為」を軸にして発想されたところによるものである。自然の主語として考えたようなことも、自然の行為というところから考えられる。自然も行為するものであるから、諸物は、自然の体系の働きという述語的・意志的あり方のうちに包摂される。この体系を主語と言うなら、真の主語はすでにこれを超越し、しかしそれをも主語として捉えるならば、いかなる形でもそれは主語と言うことはできず、むしろ主語はその時々に述語的なるものの限定的な限定面・限定体としてのみ成り立つものと考えられる。真の主語自体とは、ただ述語的本体との即一において純粋な機能としての行為的尖端とでも言うべきものであり、そこが常に創造の於いてある場所である。故に繰り返し言うようにそれは主語的には捉えらない、主語が捉えられるのは、己は限定できない、己は器となるものである、故に特定の内容を限定できないその代わりにあらゆるやってくる内容を受け入れ得るものだという無知の知そのものである。主語が不変の普遍のものとしてあるとすれば、それは内容においてではなく、ただいつも表現者(この言い方も仮である)のコテとなる限りにおいてであると言うことができる。それは変わらぬ虚のポイントであり、例えば現在という一点がその意味を持つ。現在はそれ自身内容ではない。現在はただ、元の位置にあり続けるというそれだけであり、内容は創造的に述語的に更新されてゆくのである。元の位置にあり続けるものがあるからこそ、内容の更新は更新として自覚されることが可能となる。