山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

前回の続き

しかし強いられることを満たしたその結果の産物自体には、意味があるのではないか。つまり、それは意味があるからこそ、強いられたのではないか。私が勝手にそれは無意味なものだと判じているだけで、もっと高いところから見れば、それは意味があるのかもしれない。そもそも、ここでこのように「より高い視点」という考えを持ち出している時点で、私は普遍的な価値というものをこういう仕方で信じていることになる。だから、私の信じるところによれば、やっぱり普遍的な価値というものは存在することになるのである。強いられる、ということも、このような「視点の高い低い」に対応して出てくる個々の局面なのではないかと思われる。単純に言うと、このレベルではこれこれが強いられ、また別のレベルではこれこれが強いられる、というように。全体として、それぞれは自己の実在的な位置を確保しているのだと考えることができる。だから、好きなものは素直に好きであってよいのではないか。「好きだけどそれは客観的には無意味なのだ」などと斜めに構えなくてもよいのではないか。私はこのことを信じることにしよう。