山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

意味付けが社会的義務になった途端、私の普段の自然な習慣は、そのやる気を失うことになるだろう。私は義務として緑茶を飲むのではなく、習慣として緑茶を飲むのである。結果として十回に十回緑茶を飲んでいるという結果があるとしても、そこに付いてくる意味合いが、義務と習慣とでは全く異なる。古代ギリシャ人が私に求めているのは、自然な習慣の社会的義務化であり、それは筋違いもいいところである。だから、私は例えばお菓子とともにその都度緑茶を飲むことを「決めて」いるわけではない。ただそうなっているという結果はある。しかしそれは繰り返し言うが社会的義務でなく、自然な習慣なのである。

こう書くと、古代ギリシャ人は、「それは同じことだ」と言うのであるが、彼らの態度は明らかにそうでない。同じことであるならば、なぜ自然な習慣が自然な習慣であることと区別をつけて、わざわざ「君はそうすると決めている」と言う必要があるだろうか。同じことならば、要するにそのことについてわざわざ口を出さないものではないか。私がただ自然に習慣的行為を行っていることを、無言で承認すればいいだけの話である。なぜ、突然、私のこの行為に、社会的義務意識があることを言うのだろうか。今までは何もなかったではないか。なぜ突然そのことを義務化しようとするのであるか。この点にはっきりと矛盾がある。要するに彼らは、私の日常の、おそらくあらゆる行為について、義務的に捉えてそれを私に強いようとしているのである。私が、彼らの勝手に定めた、私の習慣由来の「義務」に、従っているかのように振る舞うとき、彼らは「美しい」と決まって言う。しかし私の行動の動機は社会的義務からではなく、自然なフィーリングからであり、それが結果として多くの場合習慣をなしているだけなのである。