山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

純粋に楽しむことができなくなった。私の中には他人がいる。趣味に打ち込もうとすると、それをしながら、彼らの「罪罪」言う声が私の胸を刺してくる。と書くと、美し過ぎるなどと、野次馬心で言われる。彼らの精神の質の悪さが問題なのである、こういう現象に関しては。私は不断に、こういう者たちに束縛されながら過ごさねばならない。苦しみから逃れるための趣味に、苦しみそのものをもたらす、この人たちの精神のあり方が、純粋に疑問である。ここで、哲学ブログにあげてと言われる。その真意は定かでない。私は彼らの行為をこの胸の内でしっかりと目撃し、その事実を書いたまでである。

一体どこに罪があるのだろうか。これは全く意味がわからない。私はただその事を楽しもうとしただけである。こんな生きるのに基本的な権利が、「上のご機嫌」によって、奪われねばならないのか。それは本末転倒ではないか。この言葉が合ってるかはわからないけれども。上の都合というのは、皆んなが、より楽しく、よくなるように、出来上がっているのではないのか。まことに意味がわからない。私は、罪は、そういう彼らにこそあることを感じている。自然な楽しみの禁止という原則は、一体誰の、上の中の誰の意向によって作られたものなのだろうか。


https://youtu.be/kmXneNbM52I

罪罪言われているのは、以上の動画である。何が悪いのだろうか。もっともこんなもの、興味を持つ人がいるものだろうか。ただの私の趣味である。こんなところに、裁きの者が入ってくることは、おかしいのではないか。私の自由はどこにある?

書けば書くほど、美しい、という負け惜しみを言う声が聞こえてくる。書くのをやめて、リラックスしようとするときには、死ね、などと言うくせにである。そのあたりの態度は、矛盾していないか?美しいのなら、本当にただ美しいのであろう。局面が変われば急に態度を豹変させるというのは一体どういう心の構造をしているのであろうか。