山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

私がこの檻から出るには何が必要であろうか。すでに、書くことはもうこの中の人達の遊び場となっている。他に手段がないのだろうか。何を書いても「いいね」する声が聞こえてくる。今「非常にいい」という声が聞こえてきた。で、ここでまた定番の「哲学ブログあげて」である。大体こういう流れが起こってくるのが、私の日常の筆記である。なぜこれをそのように褒め称えるのだろうか。それは中の人が私に注目されて嬉しいからであり、苦しみを訴えれば訴えるほど、彼らにとっては喜びとなるからである。私はこの下劣な本性について綴ってゆくほかはない。本当に、生産的な人間関係とはどういうものだろう!

私が頭を使おうとすると、これを妨害してくる。そのことについて訴えれば、喜ばれる。なるべく頭を使わないようにすればそれだけ喜ばれるのである。

今日は、「妾薄命」という李白の詩について調べてみた。漢文のままだと読めないので、現代日本語訳を読んでみたのだが、この行為がまた喜ばれたのである。というのは、要するに易きに流れる、頭をなるべく使わないという方向性の方が、この人たちにとっての喜びとなるからである。彼らからは、非常に美しいとの評価をもらっているが、私にはそれは負け惜しみとしか感じられない。ルサンチマンというのがこれに当たるであろう。ただ、このように、また彼らは注目されることで、喜びを増してしまっている。どこまで行っても頭の悪さ賛美である。私はせめて読み下し文でも読めないかと思って、これに抗議する意味で読んでみた。やはり読み下し文というのは、リズムが良く感じられるものである。これで、ようやく、私として少し「美しい」状態になったぞ!