一言一言重厚に束縛がきつすぎて、楽しむということがすでにまるでできなくなってしまっている。霊人の地上的観念がとにかく邪魔である。
中身のない道徳性がいつまでも続いている。厳粛にしていることが嫌いである。
流れを妨げる観念があまりに多く、一貫した流れを文章で作ることがほぼ不可能となっている。目的よりも、要求に応えることが目的となっていて、媚びるかどうかが基準である。私がもともと占有を許してしまった人たちの占有物となっている。
この者たちは、屁理屈こけおどしを、真剣に思いこむことが多い。そのために、自然な思考はすでにできない。
これもまた中身のない道徳性である。無駄に厳粛であることもそうだが、こういう人たちのヒステリーが気色悪い。内的充実には程遠いし、こういう語彙自体が、望まぬものに侵されている。全ての語彙につきまとう、気の抜けた感じが、やっていられないが、文法的要件を満たさなければ読み返すことも難しい。
意味のないと思える道徳性がとにかく邪魔である。単純な楽しみはないか。ここで楽しみという大げさな道徳性のような感覚が邪魔してくるため、こういう言葉にもまるで意味がない。全ての行為に、したり顔、ちゃっかり顔が、半端な教条をさげて脅して干渉してくる。要するに基準を満たすかどうかだけが大事なのであって、責める声も、全然責めていない、ただ空虚に残像だけを信じて格好をつけるだけである。本来のただ単にある楽しみというものがわからない。何がどこまで必要か。この人には何が必要で、私には何が必要か、性格に傾きのある様々な立場が同時に楽しむことは、はじめから難しいと思われるため、人間が精神的であろうとすればおそらく楽しみは一切なくなるのではないか。あるが、常識的な言葉の通用領域でのそれはもはや価値を持たなくなってくるのではないかと思える。
感情の出方は、周りの地上的束縛とはよそに、大変空虚であり、言ってはならないようだが、まるで実質がないように思われる。ここでのいわゆるマグマ操作*においても、陳腐な道徳意識に基づいた感情操作行為は常に張り付いていて剥がすことがまるでできないが、実際の感情は脅しに耐える感情と控えめな引っかかった気の抜けた広がりの感情である。身体的には妙な空虚感と引っかかった独特の苦しい感じがある。この実質に対応する現実とはどんなものであるか、それは存在はするが、大人ぶった良識的な束縛の網ではとても良識的に捉えることのできないものである。したがっていつまでも、それらを信じていれば、道徳の名のもとに信じられない人格侵害が堂々と行われることになる。皆こういう精神状態なのであれば、もうすこし違ったろうにと思う。
2021, 11/27
*私の意識状態の特徴の一つに、「マグマ操作」と言うべきものがあるのだが、これについては後にまた説明するだろう。