山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

流し読み、そこに使われた認識の労力というのを、私の認識能力の「限界」だと、無理やりみなしてくる。

同じような精神的境遇の人っているのだろうか。 


これに尽きる。言葉では、うまく表現できそうにない。そこを突き抜けてみるほかないのであるが。




「君はこれでいい」という声は、一体何を勧めているのであろうか。そうであることのメリットは何であるか。彼らにとっては、私が「そう」であることは、都合が良いらしいのであるが、認識能力を廃人化させることに何の意味があるのだろうか。私の現状以上の認識能力が私を覆うことになるのだろうか。当然、そういうことはない。そういうことは、まさに私の認識を通してしか、つまり内的にしか、可能ではない。私の成長は、私を廃することによっては与えられない、私を「伸ばす」ことにおいてしか与えられない。

私が動画に流れている説明を流し読みにしてゆくとき、私は私の思考のずる休みを認めたのだと(意訳すれば)、彼らはそう判定した。たまにそういう風に動画をみたい気分になるときもあるのであるが、彼らは、この単なる一つの気分を、恒常的な、私のあるべき状態だとみなして、ずるくも、その状態を、関係性を、固定しようとする。その結果「君はこれでいい」の状態が生まれてくるわけである。ずる休みの状態を固定しようとしてくるわけである。理解能力の基準を、常に低いところに置いておこうとしたのである。事実から言えば、あれはずる休みというべきものですらない。というかそう書くのも馬鹿馬鹿しいこと、その時々の、態度の適切な取捨選択程度のことにすぎないのである。
 
たった一度、テロップたちを流し読みにしたというだけで、彼らはこれを自己都合で捉え、認識能力の鈍化の固定作業を行おうとする。彼らは、それがいいと思っている。なぜならば、私が馬鹿になれば、そこに自分の都合の良い意思を反映させることができるからである。都合の良い認識方法を与えることができるからである。しかし私は全て私自身において私の責任で認識を行っている。私は私を捨てることはない。彼らの認識方法自体についても、私は私において認識する。その上で私の最終的な認識は存在するのである。本当に、私にとって、ためになる、認識能力の深め方とは、どんなものだろう。今の私の認識活動の大部分は、このような格闘から成っている。人生なんてありゃしない。もはや。





もしかしたら、こういうことは、誰にでもあることだったりして。