山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

人生の壁。できてはすり抜け、背後をつかれる。この壁は攻撃力を持っている。放置できる壁でもない。さて、それを「乗り越える」ことが正しい選択肢であるとも限らない。私は、ひとえに、それがなくなればいいと思う。 

私は、壁を乗り越えようと企図する。すると、壁はすでに背後に回っている。これでは向かうも向かわないも同じ不自由である。言い回しが少し不自然だろうか。ともかくそんな感じである。

そうではなくて、もっと、何と言うか、ドン、と立ちはだかる壁は、私にとって、何であろうか。しっかりと就労しなければならない、ということぐらいのものだろうか。就労せずにお金を稼ぐというのは誰もが持つ願望である。私もそれを望んでいる。魂はそれを望まないのだろうか。就労するとかしないとかいうことを超越しないといけない、というのがスピリチュアル的な答えなのだろう。ただ、私は一体何がしたくて生まれてきたか、見当のつかない現状である。ひとまずはそのあたりに見当を付けるということが壁になるのだろうか。中の人たちは謝罪等をしつこく請求してくるが、まさか人生の目的がそんなところにあるとも思えない。私はもっと私自身を謳歌してよいはずである。

常識的なことを書こうとすると、中の人たちが、私が檻の中に閉じ込められているようである有様に安心して、悪納得のエネルギーを発する。私はこういうものに囲まれて過ごしていかねばならないのだ。スピリチュアル的に言う目覚めとは一体何なのだろう。目覚めた先にあるものが、こういう周辺環境なのか。彼らの導きについてゆけば、どんなひどい目に遭うものかわかったものではない。彼らは檻を原則としているように見える。彼らは、私にとって壁でしかない。そしてそれは背後を突くものである。卑怯である。個性の宿った壁である。ゲームする壁でもあろう。ゲームならよいが、なにぶん狡いのである。

これを書いた目的は、日記のため。あまり深いことは考えられない。