山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

全てが何のためにあるかわからないが、強いられるということはある。強いられることに従い続けることで、日常というものができあがってくるもののように思われる。生きていることに意味はないようであるが、ただ強いられることだけが積み重なっている。こうやって書き出してみると、書くということを「もっとやってみよう」という気になる。その気だけが、この「強いられ続ける」という状態から私を離れさせることができる。なんだかその気になる、というこの感じである。

好きなものというものはあるのだが、その好きな何かを享受することや、その好きな物そのもの自体が一体何のためにあるものなのか、少し考えてみると、全くわからなくなる。こうして何か書くことも、結局は意味がないではないかと思う。しかし、例えばある論理的もしくは文学的レベルを満たす、というような「強いられる」条件というものが、このような行為の内に干渉してくる。そしてそれを満たすことがこの行為の目的となり、それ以外の余計な「必要論」については考えもしなくなる。だから、こうした強いる力が、私にとって実在的である限りで、さまざまな物事は意味のあるものだということになるのだと思う。そのものの「内」にいるときにはその行為は意味があるが、一歩そこから出て、客観的にこれを眺める視点を持つようになると、途端に無意味な何かへとそれは変貌するのであろう。

人によって好みが異なるのなら、私の好きなことも、所詮普遍性はないのだ、という素朴な感想をふと抱いて、こういうことを書く気になった。結論は、これ自体も、書いているその時には意味があるが、一旦そこを離れれば相対化の闇に埋もれることになるということになる。