山中臨死境

統合失調症です

これまでの日本精神は、言わば比較的に直線的であったのですが、しかしこれからはどこまでも空間的とならなくてはなりません。私たちの歴史的精神の底から(私たちの心の底から)、世界的原理が生み出されなければならないのです。(119/567)

それでは、日本精神がどこまでも空間的となる、すなわち世界的・空間的となるということは、どういうことなのでしょうか。それは、どこまでも学問的となることでなければなりません。つまり、理性的となることでなければならないのです。それは、どこまでも、感情によって理性を排斥するものであってはなりません。独断的であってはならないのです。それは、厳密な学問的方法によって概念的に構成されることでなければなりません。理論をもつということでなければならないわけです。学問的方法というのは、時間的な自己を空間的な鏡に映して見ることです。すなわち、死して後に生きることです。そこには、どこまでも自己批評がなければなりません。精神が学問的であるということは、客観的なものとして誰もがそれを認めなくてはならないということですが、コスモポリタンとなるということではありません。この点が、多くの人によって誤解されていることです。(131/567)

人は、往々にして、精神というものを使用者としての人間のように考え、これに対して知識というものを道具のように考えます。和魂漢才というような言葉も、そのような思考法のあらわれであると思われます。けれども学問というものは、それ自身が精神をもったものなのです。自然科学のようなものでも、そうなのです。学問というものは、私たちの精神が事物の中に生きることです。そうなって初めて日本的学問ということができます。(151/567)

以上、全て「学問的方法序説 ----「日本精神の歴史哲学」に向けて」(西田幾多郎西田幾多郎 講演録 学問的方法序説----「日本精神の歴史哲学」に向けて 付・『善の研究』より 超訳 知と愛』 2016, 大正昭和史研究会)より引用。kindleにて。


事物の中に入るとは、物の世界においてこれを見れば、学的成果が、コンパクト化されて表現されてゆくということであるのではないか。そうであればこそ、時間的な自己が空間的となってゆくとここで言われていることの意味もわかってくる。単に時間的である自己というのは、物の観点から見れば、多くの人間的身体が同時に分散して世界に存在しているという状態のうちに存在するものである。それが空間的になるというのは、そのような分散的ありかたを、物から見ればコンパクト的な形で、自己の内に統合し丸めて持つということである。生活用品をはじめとして、あらゆる表現物がこのような意味を持っているであろう。自己が空間化するということがあるから、すなわちここに居ながらにして自らが膨らんでゆくということがあるから、精神というものが存在することができる。膨らみとは、この場合単に空間的に膨らむということでなく、あくまでも精神的に膨らむということである。すなわちそれは物がコンパクト化してゆくということであり、物はここでは人間の介在によって、精神的に膨らんでいると言うことができる。物はその分だけ、それ自身空間的なまとまりという意味合いを持つことになる。そうした意義の最高のものと考えられるのが芸術におけるそれであろう。現実に空間的に離れている物と物、人と人どうしは、人間の制度化的努力によって、例えば交通といった形でその間が精神的に埋められる。精神的に膨らむとはまた、それ自身が単一のものでありながら、すでに多様な関係のもとに生きているものであるということである。事物がそのように表現的なものならば、それは人と人との関係の連結点となるとともに、そのような関係のあり方そのものの履歴の痕跡となるために、精神はいつでもそれを触媒として自らを働き出させることができる。学問がそれ自身精神を持つと言われているのは、そのような物自身の触覚作用のようなものを育てて行く方向でそれが養われているからであるとも言える。