物の認識において、自覚を無にするとき、五次元はゼロとなるため、そこに四次元時空という一定不変の枠組みを考えて差し支えない。つまり五次元を忘れ続けることがこの時空間をそれとして維持する秘訣である。そしてこれがあるため、認識=物理学的真理となる。五次元目にまだ値を持っていた主観的認識の立場は、純粋観測者によって、これを奪われ、観測は結局は真理そのものを映す鏡としての機能を持つことになり、観測と数学的論理学的基礎づけが一つのものとなる。五次元とは自覚的観点から出てくるものだが、自覚そのものを極小にしてこれを対象化するときに、物理学的四次元時空という枠組みによる物理現象の説明ということが考えられる。主観的なものは、単に客観的認識によって、真理そのものへの認識としては、排除されるべきものとして、認識されている。認識そのものを、認識の純客観面に沿って捨てるとき、すなわち認識をその枠組みに直接するものとして純化するとき、物理学的真理の認識というものが成立できる。これにおいては主観も純論理的なもの、純数学的なものとして、純化されている。
観測者のこの機能というのは、動物的身体からさらに本能そのものをも否定し、ただ見て一かゼロかを判定する抽象的観測者というものに、主観的なもの主体的なものを置き換えるというところから成立する。そしてこの観測者は四次元時空そのものに忠実におり、それをはみ出すものは単に概念的として論理学的、数学的な思考領域と考えられる。それは純粋な概念の領域であるので、純粋には、我々の思考という具体的プロセスというものも虚構のものでしかない。無論そう考えるならば、なぜそれは虚構と直観され純論理的なものが直観されうるかという問題に至らざるを得ない。直観そのものが偽であるのならば、純粋な論理というものも成立しようがない。また純粋に概念的な領域というものも、なんらかの実体性によって存在していなければ、それは存在すると言うこともできない。それには実体性の概念の拡張が必要であり、それに伴って客観的時空の概念も、見直され、内的に拡張して捉えられる必要があるのである。純粋な概念領域には無論実体性はない。だが単にそう言うのみでは、それは単なる非存在と何ら変わらず、我々の思考にいかなる影響を与えることもなく、運行しているはずのこの物理的世界というものも、その運行そのものの法則を奪われることになる。実体性というものは無論純理的なものについてはないと言えるのだが、しかしそれはあるのである。そしてそれがあるのならば、それは実体的だということである。実体というあり方がもともと実体否定的であるということが考えられねばならない。故にこの主観的現象は虚構なのである。或る物があるということが、それとして同一のことでありながら、非存在から存在まで何段にもなる存在の仕方を持つということでなければならない(これを表現的と言う)。自己自身からあるという実体性とは限定できないものだが、限定しないと実体ですらない。そこに実体そのものの原初的な自己矛盾が存している。概念とはこの非限定的となる方面に対象化して考えられるものであり、そういう意味においてはそれはすでに限定されている。ここから観測者たる主観は、主観性という、実体性のうちに複雑に混じり合い混濁した領域を捨て、主観性を単なる判定の機能として機械化してしまうのである。それは概念の領域が観測者の純理的活動のうちに考えられるということである。純理的であるがために、観測者は四次元時空に綺麗に収まり、ただ身体的観測者としては、或る条件にしたがって或るものが一かゼロかを判定するのみのものとなる。ある意味これは主観的なものの物理学的存在としての自覚であり、五次元の値がlimitゼロになったが故に、この軸の存在すらともに忘れ去られているというあり方がここにあるのである。忘れられたこの軸は、しかし概念の空間として、認識上は非実体的なものとして存在する。だがそれもまた真には実体的なものであるので、その客観的作用という次元が考えられねばならない。そこで私は五次元目という概念をここに導入してみようとしているのである。それでも概念はメタ的なものであるとも考えられよう。理念としてはそうなるのであるが、すでに客観的事象として考えられるような概念作用は、普通に考えられるはずである。言語による思考のやりとりなどは、まさに単に四次元時空的には発想できない、しかし客観的物理的である事象である。これを客観的現象として見るとき、そこにもある種の観測者を立てることが可能であり、それが正確であるからこそ概念というものが思考の領域においてそれ自身を立てるものとして成立することができる。真の概念とはその先にあるものである。概念化できる概念は、いまだに真の概念ではないと言うこともできる。ただ単に概念という領域が、様々な概念を、上も下も、あたかも実体の世界の混濁のように一つの領域として存在せしめているわけではなく、そうした曖昧な領域に、観念の全てを置いておくことはできない。観念の領域それ自身も客観的な体系性に依っており、その体系は単に主観的なものと考えることはできず、必ずいわゆる客観界との接触点を持っている。そこで、繰り返し言うが、客観界というものの概念そのものが改められなければならないのである。ただし従来の客観界の概念を否定するのではなく、より深い観点からそのままこれを包摂する必要がある。そのために、私は五次元目というものを考え、その値のlimitゼロの局面として、事実上客観界はそのまま四次元時空間であると言われることができるのだという説明を与えたのである。五次元目の値が動き出すときに、ロゴスのやりとりの客観性が物理学的な意味で議論されることができるようになる。