準備体操。単純な図式。
純粋客観→認識→行為→純粋客観
行為は純粋主観においてあり、ここにおいて純粋客観と直接する。この図式が、ここでの論述の基本である。後に論じるが、行為性の概念が「一つの世界を形成すること」として拡張されて理解されることになる。包主観・客観性が真の媒介者のそれ自身による自由と考えられる。客観が真に客観化されるためには純粋主観を通らねばならない。それは観念的にではなく、制作的にである。
認識が成立するとき、純粋客観と我との間に、媒介者というものを入れて考える必要がある。これによって物は我々に対して対象的となる。無媒介的となるとき、これが純粋経験と考えられるあり方である。もっともそれは行為を媒介するとも考えられる。そういう観点からは、行為とは純粋客観的なものを直接一手に掴む立場と考えられ、純粋客観的なレベルそのものでそこに作用することのできる立場と考えられる。普通の媒介者においては、それをさらに媒介する立場においてのみその世界の全体性と関わりを持つことができるのであるが、行為はその根底的媒介性を自己にそのまま保有するものであるので、仮設の暫定的認識的ベースである認識主観の立場を経由する必要はない。*1無論そこを経由してそこから行為に至ることもできるが、行為そのものが成り立っているまさにそこにおいては、認識主観は包括され超えられている。主観というものも一つの客観と考えるとき、また客観と真の我との間に媒介者を考えることができる。*2この場合客観とは単なる外的客観ではなく主観に肉迫した主観的客観であり、その意味でそれはより真に客観的な客観と言え、それをさらに媒介するものは、客観そのものを創造する原理と考えられる。純粋客観に媒介が必要なのは、主観にとってよりそれを客観的たらしめるある観点が必要だからであり、また創造性との結びつきが実現されるためには、純粋客観に対して或る観点に立つ必要がまずあるからである。我々は純粋客観から仮設的な認識ベースに至り、また客観へと還るのであるが、それは主観性を突き抜けることによってである。客観性が内的に把握されるということがあってこそ、主観的作用が自己否定的に(自己自身を超えるという仕方で)客観界を作ると言われることが可能になる。創造の媒介者は自由であり、自己をいかようにも設定することができる。
以上に関連して、我々は次のことを言うことができる。媒介者は選ぶことができる。目の前の表現を主観に媒介させれば、それは対象的な表現物となり、神に媒介させればそれは超個的な神の表現物ということになる。この間、つまり媒介者と媒介者の間にまた、媒介者が存在するからこそ、そしてそれが自由意志であるからこそ、我々の現実は自由なものとして存在することができる。ところが実際この自由というものは、体験の環境というものに左右されるものであり、あくまでも理念的に自由と考えられるものであり、それは概念である。だが我々には絶対自由というものが与えられている。目の前にあるものを、必ず或る媒介者によって、そのフィルターを通してみることを、しなくてもよいのである。常にその上位の媒介者が我々には与えられ、それを知るだけ、我々はいよいよ全なるものに近いものとなる。媒介者とは、端的に言えば、おいてある場所、一般者だと言うことができよう。ある物を、何「において」見るか、ということが重要なことであり、それは物の認識そしてそれへの行為に際して、我々自身が何を呑み込まねばならないか、ということがその選択において示されている。物を即物的一般者を媒介して見るという場合、これを徹底させることによって、その媒介者の真の媒介者性が達せられるが*3、それはその物の物としての特定の領域における真理を目指し、それを共同において共有するという態度を示しており、そのような社会的眼差しのあるところに、自然科学というものが成立し得る。研究者としてあくまでも誠実であるとは、この見方を徹底し、それ自体としてある一つの世界を形成することであり、それは研究事実の共有という公共的側面まで含まれた事実である。またその技術的応用の展望という見通しもそこに含まれる。ともかく、そこに一つの「世界」を形成し得るという限りにおいて、この媒介者は、真の意味で媒介者と言われるに値し、その程度が高いだけ、媒介者の媒介者に媒介されてできた立場と言える。物の即物面を、ただ一時的にのみ見ようとするとき、それが単に気まぐれであるとき、見かけの一般者はこの科学的一般者とそのときには同じようであっても、その内実は、気まぐれの媒介者においてそれはあることになり、気まぐれの世界は気まぐれの世界として一つの世界領域を形成するという限りにおいて、それもまた媒介者的なものではある。認識とは必ず特定の媒介者によらねばならないのではなく、常に柔軟に、どこの世界に「おいてあり」たいか、あろうとするか、という観点から、選択され得るものである。客観的な所与というものは、確かにこの時点では無媒介的に与えられていると言え、それはその時点におけるそれまでの行為や認識がゼロとして精算されてできた純粋客観的状態と考えられる。それをあくまでも主体化してゆこうと意志する限り、我々はこれを認識する媒介者すなわち作ろうとする世界を選ぶことができるのであり、その行為の結果はまたゼロとして精算されることによって新たな客観的所与となる。客観的所与があくまでも純粋に他的なものでありながら、認識の第一歩であるのは、実はそこに己の行為の全ての履歴が詰まっているからであり、我というものは実は常に客観において座づけられたものでしかないのである。無媒介的に与えられた純粋客観的な所与というものは、真に自由なる媒介者、媒介者そのものの媒介者の立場から理解可能である。なぜなら、このような立場にして初めて我々は特定の媒介者を離れ、媒介者を選択する権利を有するからである。客観的所与とは、我々の存在に、自由を端的に与えているなにがしかである。それは媒介者を媒介する立場に立っている。媒介者の媒介とは、全ての媒介のあり方を、それぞれに一つの世界として成立させるものとして見ることである。客観的所与は、それらがやがて媒介されるであろうことを包括的な観点からすでに包んでいる。それ故にその裏面に、こうした所与を純粋実体と考えることができる。その物質面をみるときに、形而上学的に物理学的実在が成り立ち、その精神面を見るときに、汎神論的な実体というものを考えることができる。その実それらは個別の媒介者がさらに一つの世界を形成するものとして純化されたものであるので、つまり真なる媒介者を一つの個別的媒介者においてそれぞれ表現したものであるので、物自体というものは実際は常にその両面の矛盾的自己同一として存在すると言うことができる。主体と環境が裏つながりであると前に述べたことは、このことと深く関連している。それは認識性を微小に、行為性を極大に包んだものとして考えられる。それは原初一般者によって語られるあり方である。原初とは最大の制作を含むのである。
補足。
物質の一般者は潜在的に計測されたものの領域を指す。我々が目の前にあるボールをほかならぬ物理的対象として見るのは、それがすでに潜在的には定量化を経ており、すでに潜在的にはそれが確かな量として測られていることから来るためである。見えない定規がそこにはある。そういうものが物理的対象と言われるのである。見えない定規があるために、そのものの「そこにある性」すなわち単に観念ではなく現実の客観的事実としてそれがそこに座を占めているということが言われることができる。定規が実際にあてられることは、全て単なる観念に対してでなく、実際に経験的事実としてそこにあるものに対してのものであるからである。