山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。

新しい、私を広げてくれる価値観が入って来ると、反射的にそれを嫌がる存在が私の内にいる。彼らの狡さは、そうなると、この価値観を「捨てて」などと言ってくるところに表れる。捨てて、と言われるべきは、彼らの持つ古い価値観の方なのであるが、この言葉のそうした功力を反射的に悪用して、そのように言ってくる、マウントを取ってくることが実際に起こっているのである。このような顕われは、見逃すことができない。私のための教訓として、書き残して置きたい。

古い価値観がある。それはいずれ捨てられねばならない。なのに、新しい価値観を手に入れかけた人間に対して、「それを捨てろ」と言うのである。この狡さ、味わっていただきたい。こういう発言のひだに、救いようのない根性がよく出てしまっている。まことに彼らは憐れまれるべきである。

新しい価値観には、あるパターンがあることが、彼らにも本能的にはわかっている。要するに、耳の痛いことを聞かされる感覚であろう。しかし彼らの狡さは、それを耳の痛さとして感じるレベルにまで意識に上げずに、反射的にマウントを取る方向にしか意識を持って来ないことである。何が何でも、新しい、ものの見方を広げてくれるはずの相手が「上」であってはならないのである。

今語った新しい価値観とは、無論、変な宗教のそれではないこと、それは付け加えておかねばなるまい。あくまでも常識的な感覚に基づいて、かつ常識に囚われない見方で受け取ってもらえるようにと願っている。旧来の価値観に固執する働きが、具体的にどんな仕方で新しい価値観を持つ人たちの足を引っ張るかということの一つの好例であると思われたために、そのことについて、ここにメモすることにした。