山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

「自覚の諸段階と、主体と環境の実体的同一性(いわゆる物自体)について」についての補足

https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2024/07/24/102044

この記事に関する補足としてのメモ。


時は環境である。全体という現在を過去へと送り、全体なるものがいつの間にか部分となってしまうのである。常に全体的なものは、環境においてすでに部分であると言われねばならない。だから環境の真の全体とは、対象的にはどこまでも掴めないものであるのでなければならない。環境という全体をしかしいつでも掴むことはでき、そこから表現というものは生まれるのだが、物自体としての環境とはいかなる形においても対象化不可能でなければならない。そのことは、私というものが常に環境に対して独立的であることとパラレルである。物自体としての私は真の環境と裏つながりであるとは、前にも述べたことである。表現というものが表現「物」になってしまうというのは、私というものの真の本体が常に奥行き的なものであることと、環境というものが時として全体が全体であるほどすでに過去に送られ部分的なものであることになってしまうこととが一つである、ということから来る。真に全体的なものとは自己表現的なものであり、全体が全体であるとはそれがその部分となることであり、逆に部分的なものが全体的なものであることである。私の身体というものは、暫定的に「現れぬ私の本体」を表現することができてはいるが、その暫定性は環境の歴史的時間的個性と一つのものと考えられる。それぞれの時代にそれぞれに見合った教えがある、と大日月地神示では言われているが、それはこのことと一つのことであると考えられる。私という現れぬものは、身体という現れによって実体を持ち、これに伴って個性的環境というものがやはり実体として存在し、そこに個性的な時代性・地域性があると言うことができる。しかし真の実体はいかなる形においても対象化できないものであり、それは自己表現的なものであるが、そのように言われることによって、いかなる形でも対象化できないものはそれとして表現されてしまっている。自己の身体というものは全体性の一つの表現の仕方であり、また言葉というものもその一つの表現の仕方であるが、身体そのもののほかに言葉という表現手段を持つということは、いかに考えられるか。身体を対象化できる言葉というのは、実体として身体よりも広く深い立場に立っているのでなければならない。本能による運動においては、その表現は身体そのものと一つである。本能は身体に直接格納された意識であり、身体を対象化する意識ではない。もっとも動物も道具を使うことはあり、また環境において走るといった運動をする際に環境と自己の身体のある種の客観的把握が必要であることは疑い得ない。だが人間においては、そのおいてある環境の歴史的個性を対象化して見ることができ、その背景にあるものの声を聞くことができる。本能的あり方においては、個性的環境そのものとその個体とは一つであり、その外側にあるものの声を聞くことができない。身体がそのもののロゴスを全て語り尽くしてしまっている。しかしその身体を使って在る者が身体そのものとは独立にロゴスを使用しその体系を打ち立てるとき、そこに身体を超える実存というものが立ち現れてくる。それはあるいは、身体とともに、「同時間上」は滅びさるものであるかもしれない。しかしその論理的資格においては、この実存的存在は、身体に対して超越的でなければならない。こう考えたとき、実存が身体とともに滅び去ると考えることはいかにも不自然なことであるように思え、それはかえって身体というものが単に本能的な機関でなく、実存的内包を深く有した特別な表現的身体であるということを示唆している。すなわちロゴス的身体として人間的身体を考えることができる。それが表面的に動物と異なるものでないのならば、この身体の一つ奥にそれよりも深い身体が存在するということになる。それそのものがこの動物的身体とともに時間上滅び去るものならば、この間の時間というものには、単に動物が与えられているのとは次元の異なる表現的ミッションが存在するということであろう。この時間は表面上動物と同じ寿命的なものであっても、その内的意義が全く異なることになる。前世の概念はここから考えられるのではないかと私は考える。ただし実体的意識はこの身体とともに滅び去るものでしかないのなら、前世とは、実際の身体的経験によってあるものでなく、あくまでも一種の記憶、表現的必要性のためにある種勉強されたものとして考えられるのではないか。そう考えることで、心霊科学における「類魂説」などといった前世概念が説明できると考える。というよりもここで私が考えたのは、そのような立場から発想したものであるので、思考の順番が誤っている。私はこのような見解を、ロゴス的身体という立場から考えてみようとしているのである。ロゴス的身体においても、真に主体的なものは、その奥にある。だがロゴス的身体によって捉えられる永遠性は単に概念によって発想される永遠性より真実性を帯びている。単なる概念よりもそれは真に概念的なものと言うことができ、それは、環境が物自体としては捉えられないと言ってもそれがいかなる意味において捉えられないかということが、超越的肉感によって知ることができる立場である。私がここで真の環境の概念を語ることは、かえって概念的にではなく肉体的な背景を持ち肉体的に理解されることに意味がある。しかもそう捉えることが真に概念的な理解なのである。一つであるものがそのまま両極的になるという純粋概念はかえって、動物的身体とロゴス的身体との区別の肉感から掴まれることができると言える。ロゴス的身体はまたそれ自身のうちに常に超越的なものへという方向を持っており、常に自己分裂的に創造的である。その対象的方面が植物的身体から精神的身体に至る重々しい時間の過程を経た労作的な系列であり、その自覚的方面が時のはじめより存在する純粋な自在に多次元的な精神であると考えられる。精神が自己限定的にさまざまなレベルの身体を生み出すと言っても、それは自覚的方向からは一瞬に起こることながら、対象的方向からは、気の遠くなるような時間的進行・労作によらねばならない。この労作の重さに思いが引きずられる限り、精神は過程の最果てにのみあるもののようにも考えられる。はじめにただ述語的なもののみ存在するならば、我々は内容として他に得るものを持たず、ただ永遠の無に安らうのみである。主語とは述語的なものの否定としての述語と考えられる。それはこのような純粋述語の内容に飽き足らぬものを感じた精神による、自己の根底への否定である。しかし述語的なものが根底として捉えられてしまうのはすでに矛盾であり、純粋述語の領域ははじめから矛盾によって存在し、はじめ、と、その次の時、という時間なるものを持ち合わせていた。これが無から根底が生まれる、プロセスでないプロセスとでも呼ぶことの出来るものである。ともかく主語的なものが立てられるということは、純粋述語によって語られ得ない述語を創造的に得ようとする過程である。ロゴス的身体はこの過程と一つに存在するものである。やはり対象的には労作的ながらも、自覚的には一瞬において全てが得られるという性質は変わらない、大事なのは一瞬にして全てが得られるというのはあくまでも反対側の労作というものを基盤にしてこそ可能だということであり、主語的なものの拡張への意志が主語的なものの系列を純粋述語的なものに提供したと考えることができる。そうした過程を含んでしかもこれを述語的に瞬時に超越するところに、述語的なものの自己限定としての認識そして行為というものが考えられる。述語そのものが進歩するということは、その基底的持続性を意味しており、それはその裏面に述語的なものも主語的に還元できるということであり、しかもそれによってまた述語的なものが主語的なものを超えるということである。表現は表現として常に時間的なものであるということは、表現が全体でありながら部分であるということであり、真の述語においてくるまれながら不断にこれを主語化してゆくということである。主語的な方向からみればそれは苦心努力の過程であるが、述語的には現在しか存在しないので、それは無の限定として直接把知される。直接把知も、情報として、自己自身の表現的内容を持つからは、実は述語的なものも進歩するのであるが、しかも主語的なものに還元されるまさにそのことにおいてそれは真に述語となる。物自体とはいかなる意味においても捉え得ないものである。