山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

主客の静的構造を、「製作」現象を軸にして論ずる

製作という局面において、形が変わらないものを道具と言い、形が変わるものを材料と言う。そして主体側にあるものを道具と言い、客体側にあるものを材料と言う。これらはともに「対象」であるが、製作という一つの行為・現象を軸に据えて考えると、正反対の方向に両極が出来上がる。これよりさらに主体的な方向に行けばそれは人間の身体であり、これよりさらに客体的な方向に行けばそれは、物と物とが存在する環境となる。主体から客体に至るまで、グラデーションのように、対象というものが存在する。もっとも厳密に言えば、今、身体とか環境と言ったものは、この「行為」において「対象」ではなかった。そこで、これらをさらに含めて「対象化」してみることが可能であるが、このとき、さらにその外側に(あるいは内的超越的に)、一方は精神的なもの、その逆は背景的なものが、立ち現れる。これは単純な言葉で言い表せる最後の極であろうが、実際には、このグラデーションというのは無限の広がりを持ったものとして考えることができる。ただ一般概念としては、こうした枠が普通に考えられるのみである。もっともこの無限とは、単に直線を伸ばしていった悪無限というべきものではなく、複雑に出たり入ったりするようなそして脈打つ無限の律動とでもいうべきあり方がそれを言い表すのにふさわしい。そもそもこうして項を順々に立てて、全体の構造を説明するという行き方も、あくまでも仮のものであり、精神というものもこのような一つの仮の構造を、しかし十分に日常的に妥当なそれを、言い表したものに過ぎないのであり、精神の出たり入ったり性というものを正しく観じなければ、その真の構造(とあえて言う)に迫ることはできないのである。脈動ということと、包むということとは異なる事象であるように、言葉だけからは考えられるが、実際の実在現象としての「包む」ということは、脈動するということにほかならない。包むというのは、脈動するということを、平面的に、客体的に捉えるときに生じる概念であるに過ぎず、そのため包括といった概念は、学的事象を作用と結びつけて語るのに都合が良いのである。学問という畑があくまでも静的構造を足がかりにするために、このような捉え方は必要なのである。包括するということは、包括するそのものが各事象の間に脈を持つということであるのではないか、脈としてそれらの事象の間に自己を持つことであるのではないか。だから語と語との間に存在する言葉の「意味」自体は、語と語を結びつける脈の内にあり、単にそれは静的にこれらを包括するものであるのではない。脈動的包括とは、生きたものであり、内なるものが外なるものであると、そこでは言うことができる。包括するということは内的な事象なのであり、それ故にそれは事象の外からこれを包むものとも、静的には、言いうるのである。このことは静的には矛盾であるが、脈動としては、単にそれ自身の自己同一なのである。

故に、静的構造というものが、いかなる局面において現れるかということが考えられる必要がある。実在的現象としては、包括とは脈打つことであるが、実際に、先ほど述べたように、製作という一局面において、四つないし六つの静的構造を考えることができた。これについて答えを与えるならば、それはあくまでもある状況に画鋲を打って、その上で、概念上そのように分析される、暫定的にそのようである、ということに過ぎない。そしてこの暫定なるものに固有の静物性を与える能力が、自然には備わっている。すなわちある時期にのみ、一定期間、物にはアニマが宿るのである。と言うと、すぐにアニミズムのようなものを想起されるかもしれないが、これはもっと概念的なものとして理解される必要があり、これはアニミズムではない。つまり、一定期間物が「物」として認識されることのできる、技術的必然性のような概念を以てアニマと呼んでみたのである。単純に変動するだけの世界に物はない。かといって全ての物がただ単に静的にあるのみの世界にも、物はない。物は一時的な生命である必要があり、被作用の可能性、崩壊され、別の物に生まれ変わる可能性を持ったものという含蓄を常に持たなければならない(そこにかえって物の永遠性がある)。すなわち、先ほど述べた六つの極の、どれにでもなり得るものとして、それは存在していなければならない。単純な疑問が大切である。なぜ、各「モノ」は、単純にそのような「モノ」として、我々に立ち現れてくるのであるか。なぜ、それらは技術的に触れられ扱われることが可能なのか。それは単に我々の認識の都合によりそうなっているのでなく、客体側のある種の内的必然性、こういうモノができる、ああいうモノができる、というイデーのようなものの内在というところから考えられないであろうか。モノは認識されることを欲しているのであり、そのことの現れが、単にモノが物質であることから離れて「モノ」として、たとえ石ころであろうと、立ち現れてくるということなのである。これはモノの意志であると考えることができる。我々は意志を持つが、我々に立ち現れてくるものは、全て固有の意志を持つのである。*1したがって日月神示が言うように、石が物言うのである。このような認識のあり方を、前に、私は、生物学的認識機構が人間的環世界に格納されている、などと言った。そこでは本能的に認識されていたものが、知性的認識に昇華されるのである。ここまで述べたことをまとめると、要するに自然自身の意志が、我々に物の静的構造を与えているのであり、そこにあるのは一時的な生命である。そしてこれらの物は実在であることから、実のところ六つの極のどれにでもなり得るものとして存在するのである。だが自然と我々との対話において、一時的に、ある特定の極という役割を、それぞれの物が担うのである。作るということも、また自然が我々に任じた何かである。結局は、六つの極によって言い表される構造も、自然の意志の表現とも言うことができる。アニミズムとは、このような意志の表現を、原始的に感じ取った結果、モノというものの真の総体性に触れた概念と捉えることができる。それは、物が主体的であるため我々の意志が客体的なものであることになるからである。六つの極の構造は、自然が担保する一時的な生命の与える静的な構造性から生じ来たったものである。実際にはこの六つの極は、自然の脈動の内に一体となってある。この空間と思われているものが、我々の意識の内にあるのだという唯心論的理解は、実際この脈動というものの内的包括性から来ており、これもまた製作という一つの現象カテゴリーにおいて捉えることができる。唯心論もまた自然から、なのである。そして唯心論は単純に客観物として自然のうちに生み落とされる。そしてそれはそこに本体を持つ。皮肉といえば皮肉なことである。主観というものも、自然が人間に暫定的に与えた能力であり、それが全てだと思い込むことも、実際自然の万能性の礼賛の代替としてやはり暫定的に考えられるものに過ぎない。脈動という一体性においては、全ては一つなのだから、己の深さは自然の深さである。己は世界の内なるものであるが、脈動として世界を常に包括している。それは己が偉いからではなく、包括ということ自体がそもそも偉いことではないのである。宗教的には、全ての物は喜びだと言われる所以である。


最後に。私に取り憑くスペイン人(かは厳密にはわからないが)はその人間性が疑われる。アニミズムという言葉に、妙な偽善的な感情を乗っけてそれを押し付けてきた。こうしたものは、こうした議論の場においては、同情ではなく、もっと知性的な客観的な観点から概念的に理解される必要がある。少なくともそのような方向性への眼差しを持たれてしかるべきである。思考停止は、単純に、気持ち悪い。どうもアニミズムといった用語は、安易な思考停止を招き易いものであるのではないかと思われる。いかなる概念語も、あるところに至れば安易な思考停止を招きやすいものとして一般に流布する可能性があり、そういうこともあって、概念というものの表現とは、常に更新され続けていかねばならないものだと言うことができる。

*1:我々にとって、「我々自身」が現れてくること自体も、実はこのような客体的意志によるのではないか。世界が私に私を求めているのである。