https://sanchurinshi.hatenablog.com/entry/2024/05/26/212020
ここに貼った前記事の、注1を受けて。
微分化した目的を実行するだけなら、出来上がる形は偶然的なものである。これが機械論的捉え方だと思う。つまりあらかじめ結果が決定されていたとしても、出来上がるその時その時の形は、この微分化された目的にとってはあくまでも偶然的なものに過ぎない。そこに形をめぐる必然性はない。ある形からその形へという移り変わりは、その原動力においては必然でも、常に偶然の新しい形がそこに出来上がる。もちろん、次にくる形を予想することが、機械論的立場からも可能である。しかし厳密に言えば、そこに形なるものを見出しているのは、すでにある種の目的論的観点からであり、それは純粋な機械論的立場から少し隔たっている。そこでは、形というものに必然性を付与しながら、その都度これを要素に分解し要素の集合として全体を考え、また結果においてこれを再構成するという手段が取られるのであろう(物体と物質という二つの概念の違いはすでにこのことを物語っている)。つまりどの要素に「注目」していればよいかをその人は決定して、これにしたがって事物を観察するのであり、これは目的論的観点の密輸入にほかならない(なぜなら、それは持続を対象にするから)。真の機械論においては時は全て等しいものであり、そこに緩急の波、太さや細さ、しなやかさや硬さといったものは存在しない(ビッグバンですら、機械論的自然においては「無」である)。ただ同じ時を、まさに微分化された目的によって、延々と繰り返すのみである。というより、そういう観点にしかそこに必然性はない。悪魔の知性は、この微小の灰色を生きる怪物にほかならない。
ところで機械論的可能性などといったのは、どういうことだろう。私がここで言わんとしたのは、質的に新しいものではなく、単に量的に新しいものである。例えば単なるカオスとか単なる奇抜さなどといったものがそれにあたる。無論機械論的可能性と言ったのは正確な言葉ではない。機械論的あり方の上にのっかって、ある量的新奇さの要素を、水滴を垂らすように、そこに与えてやる。そこで生まれてくる結果を、目的的なものではないものとして、「新しいもの」だと言ったのである。要は目的的なものの否定であり、しかし決定論的なものの否定でもある。
だが、量的新しさの目的ということも考えられるかもしれない。実際、奇抜さとは、意図されて出来上がることが多いであろう。これを考える上で重要なのは、目的「パラダイム」とでも呼ぶべきあり方であろう。このパラダイムがあくまでも一定の低次なものにとどまる限り、いかなる新奇さも、単に量的なものに過ぎないと言うことができる。真の創造は、目的そのもののパラダイムシフトを伴ったものであろう。無論それは必ずしも、全ての人を新しい概念段階に誘い込むような、大仰なものである必要はない。単純にその人にとっての内面的必然性が掘り下げられたものであっても、十分に創造的と言え、人はその人のもたらす息吹に独特の安心感を覚えるものである。目的が奇抜さであり、そのように意図された場合、実際のところ、出来上がる結果に、必然性が与えられる必要はない(もっとも、そこに妙に勿体つけたプログラムノートを、いかめしく与えることは可能ではあるが)。我々は通常、たとえ偶然の力に頼る表現であれ、これこそ我が表現と真に思えるものについては、そこに「自分は本当はこうだったのか」という現在的観点からの過去の包摂現象が生じるものである。始めからあったものとしてそれは現在に初めて生まれるのである。こういうあり方を指して創造性と言う。しかし頼るものが奇抜さを目的とした単なる偶然性であるような場合、その説明はこじつけとならざるを得ない。もっとも、こじつけと、真の意義づけとは、いつでも紙一重ではあるのであるが。
ここで気づいたのであるが、目的には、対象的方向(形それ自身)と、実現される内的深さという二つの観点が常に伴っている。目的パラダイムと呼んだのは後者の観点である。形の観念は前者の観点である。前者の観点のみで事物の形成を考えようとするとき、全ての事物は同じ深さを持つことになる。それは一面真実であり、そこでは全ての事物に永遠の静止そして充足が見られる。だが実際には、もっと立体的に、全ての形相は、体系的なものとして存在しており、それが有機的な全体性をなしている。
話を戻すが、奇抜さという意図は、決定論を否定しているようである。それまでなかった形というものを作り出そうというのであるから、それは当然である。ところがこれはすでにある特定の目的パラダイムにくるまれたものに過ぎない。正直に語れば、目的的なものを否定すれば、そこには機械論的ななにがしかがくるのではないかと、私は短絡的に考えてみたのであった。すなわち機械的なものを以て自己を表現するという逆説的なあり方が、例えば奇抜な芸術における大きな要素となっているのではないかと思えたのである。そしてそこにはそうした「意図」すなわち目的がある。機械論的世界観においては、因果律が根底にあるとされているが、そこに実際あるのは、微小化された目的的なものだと考えられる。このような微小の目的を捉えて、偶然的に発生する形を愛でようとするのが、奇形的芸術の立場であるのではないかと考えた。人間は意味の動物であると言われるが、このような偶然的なもののうちに意味を見出そうとするのが、人間的な思考である。この意味の見出し方を、因果律的な方向に抽象化しようとするのが機械論的自然観だと考えることができる。奇形的芸術は、このような機械論的なあり方を単に機械的なものとはみなさない。その実行においては大いに機械論的あり方による成り行きに頼るのに、それへの意味づけという行為が積極的になされ、これらの偶然の形どもは、それぞれに独特の含蓄を持ったものと捉えられ、積極的に意味が付与されてゆく。それが真に目的的なものすなわち現在において初めて目的となるようなそれを掴むことができれば、これは真に芸術的立場であるが、根底にあるのが自己顕示欲に過ぎないのならば、それは低次の目的パラダイムに縛られている。そもそも偶然的に出来上がった形であっても、それが偶然と捉えることができるほどになにがしかの「形」がそこにあるというのであれば、すでにそこには何か創造的な意味で目的的なものが絡んでいなければならない。そこにあるのは恣意ではない。まず混沌の内にある種の必然性を見出す神話的直観とでも言うべき認識のあり方がそこに存在していなければならない。
目的という枠のなかに、必ずしも決定された形というものを置く必要はなく、その中身として偶然的な要素をいくら使ってもよく、結局は意図次第でどんな芸術も可能である。要するにそこに何か創造的な意志を見出すことができればよいのである。行為的直観とはそのような角度からも理解できる概念であろう。
では、何故に、私は機械論的なあり方と、見かけは新しいがその実非創造的であることとを結びつけて考えたのであろうか。単に「それまでなかったもの」というものを指し示すために、決定論的目的的概念の否定ということを考えたのである。だが機械論的概念もまた決定論的なものである。では単なる奇抜さとはどこにその根底を持つのであるか。量的な新しさとは何であるか。創造的な質とでも言うべき概念がここで考えられねばならない。
典型というものがあり、例えば音楽においては、カデンツというものがある。それは目的的な観点から理解できる何かしらである。かたや並行和声と呼ばれる技法がある。これは表面的に理解される限りのアプローチとしては、機械的なものである。音楽において新しさとはどのような観点から考えることが可能か。音楽とはそもそも目的論的なものか、機械論的なものか。個々の要素を取り出せば、その双方の要素が見出されるであろう。しかしその総体性はいかなるものか。そもそも創造ということは、目的論とか機械論といった枠組みによって説明できるものであろうか。できないとしても、それは目的論や機械論を否定するものでもあり得ない。創造的なものを論じるのに機械論や目的論といったものを持ち出すこと自体が野暮なことだとも言われよう。しかしいやしくもこれらの論が世界のなにがしかの根底的あり方を指し示す概念として理解される以上は、同様に世界の根源的形成力である創造というあり方について考えるときにも、これを抜かして語れるものかとも思わざるを得ない。世界のこういう局面はただ単に機械論的であり、こういう別の場合は目的論的であり、別のときには創造的であるとして、別々に便利道具として説明を当てはめるような思考のズルを、我々はしていないだろうか。とは言っても、無論これは多くの場合思考のズルと言うよりも、対象がおのずから指し示す理論構造なのだと言える。だが実在とはいつでも一つの真理であり、一つの立場である。その一つの立場として、これらを包摂するものが考えられねばならない。
音楽の要素として機械論的なものと言えばほかに何が考えられるだろうか。特にその見かけ上の創造性、偽りの創造性に関してこれを表現するものについてである。一つの理論的規定が定まれば、あとはオートマティックに作動するような因果律的なあり方として何が考えられるであろうか。一つの式を入力して、あとは成り行きにまかせるという方法は、ある種の音楽芸術において存在するものであろうか。そう言えば何か実験音楽的な作風がそれにあたると考えられる。これに反して一つ一つ感覚に伺いを立てて感覚的な意味で丹念に作曲される作品などは、その作曲方法において、刻々と生まれる目的概念に触れており、これは私がたびたび創造的と言っているあり方である。ではあらかじめ定められた目的的なものによって作られる作品とはどのようなものか。そこでは全体の像というものが意識されている、刹那的でない。しかし感覚に伺いを立てながら進むという作曲法も、実は刹那的という意味で、ある意味機械的と言い得るのではないか。一つ一つ伺いを立てられるところの感覚が、奇抜さというポイントに照準を合わせていたならば、これは機械論的に非創造的ということにならないだろうか。*1
私は何か機械論について誤解していないだろうか。機械論とは、微小における目的が完全に理論的に打ち立てられたうえで、その全体の形にはあくまでも偶然性という価値のみ見出されるというあり方である。全体の姿が意図される限り、一応それは目的的であるが、同じく目的を有するといっても、全体の像があらかじめ確定している目的論的アプローチと、その中身の運動については機械論的アプローチに頼るが、その全体にはなにがしかの実験結果を期待しているという目的のあり方がまた存在する。目的があるからといって、それは単純に目的論的なものであるわけではない。機械論を理論として運用する者にとっては、ある種の目的因が常に働き出している(実験音楽的作風にも同じことが言える)。また目的的なるものが作動し、形相が質料を形成するといったようなとき、実際のこれの作動においては常に機械論的なものが働いている。問題は機械論的なものが、なぜ目的的なものに合致するように働くかということである。人間は意味を見出す動物であるために、機械論的アプローチを運用した目的の遂行については、その結果への意味づけの作用を常に伴うことにおいてその創造性が担保される。だが目的論における目的とは、このような偶然性に頼るものではない。しかし同様にそこには機械論的な働きが存在している。しかし機械論的理解がしばしば目的論を排除するのはなぜであろう。ほかならぬ、目的的なる観念的レベルは全て偶然的なものであると考えられているからである。しかしもともとそこにあるのは微小となった目的とでも言うべきものではないか。100%、こうすればこうなる、というそのこと自体は、一つの目的論的理解としてしか理解できないものではないか。この最小のものの、そのさらに間の、機械論的必然性というものはいかに説明されるか。必ずどこかで行き止まりにならざるを得ず、あるところで、理屈抜きでただ目的的にこうなると言えるものがなければならない。いかなる小さな単位にも必ず「形」がある。その形とは像のようなものかもしれないし、純粋に関係的なものと考えられるかもしれない。では純粋に関係的なものとは何だろうか。いやしくもそれが我々のこの手で触れる現実を構成しているものである以上、そもそもそういうものは考えられず、それは結局形を持つことになる。もし形を持たないということが言われるのであれば、それはむしろその対象自体が我々の認識を包摂しており、本当の意味で対象化不可能なものであるのでなければならない。小さな方向へ行くことが必ずしも、小さなものを見ることであるのではない。最小の機械を見ようとして、その真の機械のまるでヘンテコなありようを目前にしたとき、機械論というアプローチは、意外に取ったり付けたりできるものであるのではないかという眼差しが生まれる。我々のオカルトの世界においては、しばしば未来よりやってきたと称するものが登場するが、彼らのうち一部は、時間もエネルギーに換算でき、それを技術的に扱うことができるといったことを述べている。*2そもそも、我々の「物体」(「物質」ではなく)の世界が存在し、そこに機械論的説明を当てはめることができるという時点で、すでにこの物体概念というものは偶然的な形でないことになるので、すでにこれは目的論的立場に入ってしまっているのである。物体を微小に見てゆけば、その物理性の基礎が見られる、そして物体のマクロ次元における物理学的性質も結局これに基礎を持つと考えられるのであるが、そもそもあらかじめミクロの領域から立てられた理論でなく、マクロのレベルで形成された理論をミクロにも当てはめようとする時点で、すでにこの考え方は「マクロの基礎を求めようとしてミクロに行く、ではそのミクロの基礎は何かというと、マクロだ」というような無限後退(たぶん)に陥ってしまっている。五感の根底というものが真に知られていないのに、五感による情報が、論理的な手続きを踏んだ上ではあっても、あくまでも正しいものとして理解されているのである。正確には五感で受け取る情報のなかから、論理的な整合性を取れるものを、物理的真実として扱うということである。この場合真実の枠はあくまでも五感で得られた情報の内部(そしてその基礎としての論理的思考)にとどまり、論理的思考そのものがさらに霊的感覚によって受け取られるものであるとまでは考えられていない。その霊的感覚とは、霊感のことではない。単純に論理的思考を一つの形としての論理的思考たらしめる、単純な思考能力そのものについて言っているのである。そんなものは論理的にはあり得ないと言っている人の論理的思考は、まさにこの感覚の上に立っているのである。これはすでにいわゆる物理的ではない次元の現象である。現象として、こうしたレベルと物理的レベルとは等しく存在している。存在していなければ、物質に対する推論というものすら存在し得ない。
形相は物の形を主導するものであるがために、形相自体の因果律すなわち形相の領域における形相自体の変化ということは考えられなかった。もっとも、それは同時にさらに深い目的による作用も受けているのであるが、我々が何か思考のゲームをしているときに偶然生じる思考の化学作用のようなものは、形相領域それ自身の物理性を示唆している。物の形ができあがるのは、形相に主導されてであるが、しばしばその形相そのものが確定するのが、それの出来上がる時であるということがよくある。しかも論理的に、形相とは始めからあったものでなければならないのである。形相の領域が、物理的現実、個物のある現実と隔たったものでなく、そこに内在するものだという理解は、本来こういう意味での形相というものそれ自体の創造的形成という意味を含んだものでなければならなかっただろう。そしてそこに真に永遠のイデアを見ることができるのである。ここにおいて、形相の論理的な優位性・先位性はそのまま保たれている。しかし現実においてはそれは現在の最後に現ずるのである。それ故にそれは現実の形との兼ね合いということが欠かせないのである。これを創造的目的とも言った。
ここまで論じてきて、未だに、機械論的可能性と非創造性との根底的な関係について、幾分かの理解をも得られていないことを告白せねばならない。そもそもそのように言ってのけたこと自体が誤りであったのか。大事なことは、質的な新しさと量的な新しさとの根本的な概念の違いであり、私はひとまず量的な新しさというものを、何か機械論的なあり方から生じてくるものではないかと考えたのであった。何かの創作として新しくないあり方とは、一定の目的的あり方の範疇に収まるものが考えられるために、その否定としての新しさを、短絡的に、機械論的方向から、表現しようとする立場があると考えられないかと考えたのであった。実際斬新な技法は、使ってみてから、その全体像がわかる、というプロセスを経るしかないものであり、また斬新な技法とは、多く、ある種の機械仕掛けのような体をなすのではないかと思われるのである。先ほどの議論から、機械論的アプローチというものは、案外取ったり付けたりすることが可能であるような、実践的な概念ではないかという知見が得られたのであったが、そのことも、今述べたことと関係するだろう。
メモ:
例えば等速直線運動とは、微分化した目的観念として考えられないだろうか。