山中臨死境

なんか哲学と呼びたいものを中心として自己はみ出し

創造性と異多性に関するメモ

同一は無限創造性の場であるが故に、これは無限の異多性の場所であることになる。そこでは断絶が同胞さの印であり、創造性が唯一の共通言語であることになる。創造的でないものというものがそこにおいて有ってしまったら、そういうものは溶かされてなくなってしまう。もしこれを溶かさずに維持しようとするなら、また別の独特の、アクの強い観点からの創造性が付与される。こういうのを根源悪的存在と言う。キリスト教ではこれをサタンとして自覚化したが、しかしキリスト教が唱えるサタンがサタンの真相に触れていると言えるかどうかは、また創造性の場、異多性の場にきいてみないとわからない。

多様性という言葉は、中途半端に性善説に根ざしているだけに、現実を捉える言表としては実に生ぬるい。真に根源悪的なものを包む性善説というものは、もはや善悪の根底を善悪を超えたところから掴む何かしらでなければならない。そして悪を抜かした善というものは存在しない、正確に言えば悪のよって立つ根底を知らない善、ただ悪でないものとしての善というものは存在しないのであるから、真の善とは結局創造性によって掴まれねばならないものであることがわかる。その創造性というのも、何かメソッドによって安易に掴まれるようなものであるのではなく、真にまさしく創造的にしか掴むことのできないものであるが、他面矛盾するようであるが、それは全く技術的に掴まれなければならない。そこで世界には民族的に、善を掴むための文化的中心というか核点のようなものが存在すると考えることができ、しかしそれが何に該当するかということは、日月神示の言を借りれば、言うてはならず、言わなくてもならず、ミミに聞き知らされるものである、というようなものでなければならない。一般の安易なメソッドは、実際このような真の核点のもつ創造的な歴史的な技術性というものの性質を借りてできたものであり、それだけでなくそもそもメソッド的なるものの全てはおそらくこのような唯一の技術の似姿として存在するのである。故に本来なら部分的技術であるはずのサイエンス的な技術は、一旦唯物論的な立場に立ち返り、唯物論的に世界を把握し、自らを唯一の技術として打ち立てる必要があった。今日それに無理があることがわかったのは、これは一面に進歩であり、というのは、自然科学の技術は、単に、こういう技術もありそういう技術もあるということのなかの一つの技術であるのではなく、真の技術のある部分をなすものであるということであり、技術を扱う技術というものもこの真の技術のなかにおいては包含されているのである。自然科学は倫理学がごく自然にこれを包んでいるのであり、また自然科学を抜かした倫理学というものも考えられない。一面全て対象となりうるものが自然科学的な仕方で対象化可能であるからこそ、倫理学というものが本来補うべき創造的な意味での本質が、まさしく創造的に把握され、このプロセスを歴史と言うのである。故に西田幾多郎はこういう世界を歴史的形成的世界などと呼んだのである。学問とは本来真の創造性に至るための核点となるものであり、特定の「えらばれた」民族というものも、こうした創造性の技術のための文化的核心となるものでなければならない。実際には核点とは一つでありながら、無数の局面において無数の形を持ち、しかもそれらは全て唯一のものであるのでなければならない。ここに唯一の技術とでもいうべきものがその場所を持つことができ、わかりやすい言い方でいえば、あらゆる意味での「心づくし」というものがこのような創造的技術であるのである。故に同化を嫌うことはむしろそれが同一であらんとするためである。創造性はこのようにして異多性に己の場所を持つことによってのみ同一なものとして存在可能であり、それが主体的に「認識」の場に降りてくるときにはじめて異多性は感覚の「多様性」に変貌すると考えることができる。