山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

現実とは非存在であり、存在からの存在の奪取である

現実とは存在が存在でない側に回り込むことであり、本来存在とはアカシックレコードの静的平面で全て事足りたのである。それをわざわざ個の視点に立って経験しようとする意志が発生したために、全ての存在は互いに呼応し合って体験の場を拵えたのである。その結果アカシックレコードを変えるに至ったが、アカシックレコードの矛盾的自己同一は、おそらくそのことまで含めてこれを含んでいたという点に存しているであろう。すなわちアカシックレコードとは存在しないものの存在を支えるものでもあったのであり、だから我々は神によって(紙によってでなく)時の次の瞬間を経験的な視点から与えられることができるようになったのである。神は超越的として我々から分離した。我々の個を非存在の本性を持つものとして、存在の全権を神にあるものとして考える思想は、今述べたところから説明できるのではないかと思う。存在しないものを存在と同等に扱うには、全存在の無的同意すなわち根底的自己犠牲を必要とするものであり、それが私というものの誕生である。しかしこの私こそが唯一の非存在であり、他我としての他者の現れは、彼らの存在面でなく、非存在面をみるものであり、彼らは私に対して非存在的自己犠牲によって現れているのである。*1生き生きとした存在というものこそが存在であると考えられるが、そういう一切の現象は全て本性非存在なのであり、しかし私が私としてあるというただその神の秘事においてのみ、この資格においてのみ、それらは非存在的自己犠牲という意味で存在すると言うことができる。もとが神より奪った生命としての私なのであるから、その生命は、使わせてもらった自己自身や他者など、あらゆる広義の所有物は神のもとに返さねばならない。私が神や他者より奪ったそのお返しに単なる死というものがあるのではなく、他我の「私視点」の経験の与えということがあるはずで、これが例えば肉体死後のクオリアの集合意識への統合などとして考えられる。もしくは私が現に肉体によって接しているある人の視点そのものが私の視点となるという経験が、いずれ存在するかもしれない。これがアカシックレコードに反逆したものの受ける根源罰であり、また根源幸福とも言えるのではないか。必ずこの私という視点がただ私限りのものでなくて、全ての存在の内的視点ともなり得るのでなければならない。それがあるからこそ理性一般という概念も成り立ち得るのである。ただ現在の私は、その性非存在であるのに存在性をアカシックレコードより奪って成り立っているだけに、その罰として他者の内的視点へと自在に「私」を動かすことができず、特定のカルマを持った特定の個体に固着せざるを得ないのである。*2そこに人生という時間が生まれ、懲罰として有限なるものを全体なるものとして過ごす。本来全体なるものは無限であるのに、である。しかしここで立ち止まって考えてみると、アカシックレコードが静的平面だけで事足りたというのは、全体性が有限であることを意味していないであろうか。そうであるがために、かえってその有限性を真の無限性に高めるために、有限性を単に有限であるもの(本来存在しないもの)に託し、自らをその超越的外に置くことによって、そうした述語的含蓄によって、主語的にではなく述語的な形で、しかも「私(偽の存在、名分としての存在)」としては主語化された形で、アカシックレコードは自己自身を展開させたものと考えられる。というよりも、有限性と無限性との矛盾的自己同一というものが自ずからこれを導くのであって、有限性と無限性を単に同一せめて理念的に同一と言ってみてもその矛盾は解消できないがために、超越的なものとして、いかなる主語的な形でも捉えられないものとして自己を分裂的に置き、これらを「概念」として「自己同一」とすることで、命というものがそもそも生まれてくるのではないかと考えられる。だから主語性つまり非存在性というものを、非存在たる「私」に託すことで、あらゆる有限なるものの偽の無限化を防ぐことができ、このために私は私という場を超えることはできず、超えられるとしたらそこがすでに私であり、超越的なものはそのゆえに真に文字通り、主語的にでなく述語的に超越的であり無限であることができるのである。人生とはこの資格において無限なるものに接しこれに与ることができるが、まさにそのためだけに、人生とはどこまでも有限なものでなければならない。個的なものが無限的であることができるのは、有限であることを存在の根底から引き受けたときのみであり、存在を存在ごと非存在となし、ここに自らを引きずりこむときのみである。単に概念的なものから連続して私へ、ではなく、概念がその自己矛盾として、全く概念でないものを自己同一として持っていたことから、私へ、なのである。だから概念とはこれを自己同一と見るなら、はじめから非概念そのものであることになる。故に私は神ではない。そのゆえに、聖霊によって私は永遠の命を得ることができるのである。永遠という奥行きは、かえって私の本質的局限性から直知される。どんなに遠く深いところに行くとしても、そこには私がいる。その私とは本性上有限なものでしかない。とすれば真の無限とはいかなるものか、概念的には了解し得よう。実体としてそれを掴むことはいかなる形においても不可能である。



メモ:クリスマスのバイトなどという立場の人々は、「私」を立てるための非存在面的存在として現れていると見立てることもできる。私はこのとき、彼らがごく自然に、私と同じようにクリスマスをクリスマスらしく過ごしたいと、つまり存在として存在したいと感じているであろうことを、これまたごく自然に意識しない。そして立場上、また建前上、一応そのことは意識する必要もなく、私はクリスマスをクリスマスらしく過ごすことができる。私がごく自然に私として存在するというただそれだけのことで、特にわざわざ特別な行為をなし他者と直接関係するということがないような場合でも、本質的にこれは他者の犠牲によって、他者の非存在面的振る舞いによって成り立ち得ることなのであり、したがって哲学の原的立脚地として、つまり無の背景として自我を置く考えは、自我というものの本源的な「よっかかりさ」を理解した概念とは言えず、真の無としての意識とは、同時に私が他者の存在にとっての非存在面ともなるというあり方を含んだものとして可能であるということを理解する必要がある。鉱物というものは、その非存在面的表現によって、我々の生活の多くのものの構成要素となり、またそのような存在の仕方が主たる存在の仕方であるかのように思考され、結果として大いに役立っているのだが、彼らも存在そのものとしてはアカシックレコードそのものであるがゆえに、こうした材質は天文学的とも言える情報量の記憶媒体としても役に立つのである。それらは単に外的性質としてたまたまそうした情報量を内包することができるのではなく、もともと内的にこうしたものを包んでいると考えることができる。



メモ2:私という非存在的存在は、その非存在面として、単に現在的であり、未来や過去と隔たったものとして存在する。真の存在的現在には、未来も過去も現在もない。現在というものを一般に未来や過去を含んだものとして捉える立場は、現在を、真の現在から奪い取ったものであることを踏まえていないように思われる。真の現在より奪ったとはいえ、真の現在そのものではないからこそ、現在は未来や過去と峻別される時であり、しかし「裏接し」としての無限が矛盾的自己同一としてここに臨在することによって、現在は未来や過去を含むものと言われる。しかし私という立場にとどまる限り、いやどこまで行っても私は私を脱し得ないが、そうである限り、そこにおいていかなる包摂された未来や過去も、単に現在という限定された場においてしか存在せず、したがって未来や過去は、形を変えて結局はその外に出てしまうことになる。これが真存在の無限性を示している。私はただ概念的にのみしか私の無限性を主張できず、実体としての無限性は無限性そのもののうちにある。実体としての私は主語にではなく述語のうちにある。したがって私とはその本性無である。なぜなら、本体として考えられねばならないのは主語的なものだからである。しかしその最終主語というものが述語的なものであるのだから、私は存在ごとが矛盾している。それは自ら存在するものでなく、特別に存在を与えられているものでなければならない。概念を実体としなければならず、実体を実体とできないのは、私の本性が無だからである。真の実体においては、実体がそのまま実体であり、これを、何度も繰り返すように、アカシックレコードと言うのである。それを私にとっての他者と言うこともできない。しかし内的だからといって卑近的主語としての私をどこまでも主語的に深くしていった先にあるのでもない、そこにあるのは述語である。しかし単なる述語が己を立てることもない。私が神になることはないが、そのようなあり方においてのみ神は存在し、またそれは私自身でもある。これを指して超越的神と呼ぶ。私が無であるとき、神は存在する。単なる私の無はそもそも静的平面としてのアカシックレコードにおいて端的に存在するが、神が主語的に存在したいのであれば、無というものが主語的になる、それが「私」という視点の誕生である。存在するものが存在しないものに回り込むということはこのことであるが、単なる個としての私ははじめから存在せず、ただ個即全体としての存在ははじめにあったのである。しかし個的個として無であるはずのものが存在を借りることによって、真に無限が無限であることが概念的に了解されるようになる。概念的ということは、そのような視点からは、真の実体は無であるということになる。これは極めて大きな顚倒である。無となることによって有の座を諸存在に与えており、しかし真に有であるものとして、それは個物の創造的はみ出しとして自己をそこに表現する。結果として、これは議論を覆すようであるが、私が有であるのか、無限概念が有であるのか、どちらでもよいことになり、そこにあるのは概念と私との持ちつ持たれつの関係であることになる。しかしこのとき概念というものが私に外的にあるのではない。これは外的な二項を立ててその上に生じる関係ではない。一つでしかないもののすでなる二つ性のことである。したがって私がそのまま概念であり無であると言われることもできるのであり、無であるから実体として創造的無限であると言われることもできるようになるのである。純粋経験が実在として捉えられるというのはこのことを言っているのでないかと考えられる。しかし概念としては概念の概念としての現れそのものが矛盾である。故に現れたものは同時に全て現れの縁(ふち)を超えていると言われなければならない。現れとはそもそも存在の非存在的自己犠牲であると先に言った通りである。それは矛盾の肉化である。肉化によって矛盾は過程的となり、単なる自己同一的矛盾として空疎な概念でなくなり、矛盾的自己同一の肉となるのである。

メモ2-2:真存在は述語的ー主語的であり(先ほどの表現を踏まえれば、それは概念として端的には非肉的である)、それを捉えようとしたとき、すでにこれは有限の立場を限界におき、有限によってそれよりも下の有限さを扱うことになる。しかしこれを逆手に取って、「有限性の縁(ふち)よりも局限されたものを真存在と言う」と定義づけることもでき、そのため全ての現れのうちに神が遍在するという考え方ができるようになる。現に与えられた全ての場所は無限なるものがあらかじめセッティングしてくれたものである。それを非存在が存在を奪う形で、外的に体験することができるのである。ここで神は述語の方向へと超脱するが、そういう形で主語化することもできず、我々人間の述語的認識というものも実際のところ全て言表化できる限り一種の主語的なものである。述語となって主語とならないもの、という言葉が西田幾多郎の哲学には存在するが、この場合述語という何かある特定の概念化が可能な、観念的にしろ何か形態をとることが可能なものが考えられているのではない。しかしあらゆる主語がすでに同時に述語的なものであると言うことができ、これは先ほどの、有限性を逆手に取った定義と同じことである。故に全ての現れは表現的と言われ、個的なるものの本性は無として神の元へ還ってゆくものとして考えられる。述語を述語として立てるには、主語的-述語的でなく、一方的に主語的なるものが立てられねばならない。それが表現的なものであり、それによって真に述語的なものは実体的混沌のなかにではなく、純粋感情空間とでも仮に言うべきところにおいて存在できるようになる。そこから創造性というものが精神的能力に属するあり方として存在するようになる。感受性の存在(もっとも概念上これも非存在ではあるが存在からの借物として)というものが普通に考えられるのもこれによるのである。

メモ2-2-2:場所とは存在が単に浮遊するのでなく、地に足を付けることであり、地とは全てを包含するものであり全ての還る場所である。つまり存在が具体的位置を持つこと、個的でありながら全体的であるということが場所を持つことであり、場所とはそれが場所的であるほど、個に内的であって、内的ということはより包含的であるということである。外的場所はその外的レベルに応じた包含性を示しているだけであって、この広さと私の精神とはただちに同等であり、この広さの縁は精神的内奥への入口であると考えることができる。つまり地を地として理解することは、精神が己の成り立ちを理解することへの入り口であると考えることができる。実際にはより広いものは各個体の内側に存在するので、小さいものが大きいものよりも大きいという事態がここに発生する。大きくなりたければ小さくなれ、とここから言うことができる。ただしこの場合小さなものとは、表現的なものである。それはそのおいてある場所の全体を直接動かす権利を持ったものでなければならず、要するにそうした存在は場所的存在である。場所とは真には場所の場所となるものでなければならず、表現的各物は、そもそもそうした性質を持っているのである。そうであるのに、物が単に浮遊してそれだけの物と考えられ、場所と切り離されるのは、そもそも物という小さなもののそれ自身による独立性、場所包含性のあることによってはじめて可能となるのである。知的立場一般すなわち物を場所に連続的に考えず、任意の自己の規定する場所に置いて自由に思考し扱う立場は、同様に物や我の場所包含性から可能なのである。しかし知的立場においては、場所が肉的に限定されず、その縁はただ概念的に型取られているのみであって、したがってそこには色々な相の場所を実験的に絡み合わせようとする試行の自由な可能性が存在している。概念というのは技術的に取り扱いやすいからこのような自由の可能性が存するのである。このような可能性を知的創造性とでも呼ぼう。

場所の概念についてはまだ論じるべきことがたくさんあり、またこの論がいかに「非存在」論と結びつくかということについて考えなければならないが、それは他日にまつとして、今日はここまで。

*1:アカシックレコードこそが存在の端的な存在性なのである。

*2:カルマとは本来ただ因果そのもののことであるが、カルマという倫理的意味が生じるのは、「私」というものがアカシックレコードの無限の安らぎに対して根源的に反逆的だからであり、呼び覚まさないでもよい倫理的レベルの懊悩の諸現象をわざわざここに現前させるのが私という存在なのである。因果が懊悩を伴うとき、これがカルマと言われるのである。それは、もともと存在しないでもよい主観なるものが、主体として客観を引き受けるときに生じる諸現象であり、この根源的「無理」がカルマの原因である。主体を再び客観の無に引き戻すとき、そこに因果は果たされたことになるのだが、ここからわかるのは因果というものが機械的一方向性のものでないことで、その間に無数の選択の余地のあることである。しかもその偶然をさしはさんだ全体のあり方がただちに因果的であり、またその外側に因果というものを見出すことはできない。これが、全ては神の内の秩序だということであり、それはいかなる偶然性をも内包するが、偶然性のあることによってしかまた存在できないものであると言える。単なる必然性のうちに神的統合原理を見出すことはできない。神とは非限定的な根源制約であると言うこともできる。