山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

理性一般のワタクシ的解釈

抽象的な知的自己に対しては単に与えられたものという如きものが考えられるであろう。“しかし個物的自己としての我々に与えられるものは、生死の課題として与えられるものでなければならない。世界とは我々に向って生死を問うものでなければならない。個物的自己に対して与えられる世界は、一般的な世界ではなく、唯一的な世界でなければならない。我々が個物的なればなるほど、爾いうことができる。”

抜粋:
「絶対矛盾的自己同一」
西田幾多郎
https://books.apple.com/jp/book/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E7%9F%9B%E7%9B%BE%E7%9A%84%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%90%8C%E4%B8%80/id566858495
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当論文の「三」より、引用。



理性一般に依るから、つまり主観に依るから自由だという論法もあろうが、しかし私とは理性一般に対して自由であるだろうか。認識の一環が客観を離れて全て認識主観自身の手によって担われることになったことをもって、すなわち与えられたものが私の行為を制約せず、ただ私の行為を私自身が制約することをもって、私は主体的となった、自由となったとひとまず考えられる。与えられたものは、それ自身は私になんの規定ももたらさない。あらゆる規定は私自身が理性によって与えるものである。この知的立場においては、与えられたものは単に与えられたものに過ぎない。それに対していかなる選択も、主観の名によって、主体的に可能になる。もっとも主観が主観自身の形式に対して自由でないことも言うまでもないことである。もし単純にそのような自由を許すならば、世界のこのような世界としての当たり前の環境的な同一性という足元も一瞬でなくなってしまうだろう。だから理性一般という主体による認識遂行は、実際には単に自由なのではなくて、身体性という機関的なあり方に基づくことによって行われると考えることができる。ここで言う身体性とは、理性の理性自身による制約であり、その由来をみれば極めてヘーゲル的な、精神現象学的な概念である。理性一般の制約というものは、しかし外的でなく、内的である。単に内を内から制約するものを内的と言うのではない。そのような一方向性はむしろ一種の外的制約である。外的なものが内化され(認識の形式)、内的なものが外化される(行為的実行)ところに、自由の表現としての内的制約性の体系が生まれ、その機関となるのが身体なのである。理性一般とはその観念的と思える部分を含めて極めて身体的に成り立っており、観念的なレベルの身体性をカルマとか幽体とか霊体とか類魂などと言うのである。理性一般をしかしただ純粋に知的なものとして見るときにはどうであろう。身体というものの機関性も実際には身体と意識として分かれざるを得なくなる。理性一般は身体のもたらすものに基づいているとは言えるが、それと同一であると言われるわけではない。そしてそう考えることで、我々の主観は身体的半客観的制約を離れて純粋に知的な実存であると考えられることができる。与えられたものは、本当にただ与えられただけであって、あらゆる制約をそれに対して課すのはこの私であり、与えられたものが私に与えるのは、このような理性一般の自己実行の触発となるというあり方のみである。身体性は感性形式として純化されるに至るであろう。もっともその理性一般なるものの成り立つに至った由来というものを考えねばならず、先天的形式性というのは常に、これまでの経験の蓄積が自ずから次の現在の私に根底的なレベルで与える何か、つまり歴史的なものと考えられ、そう考えることで先天性ということを無背景に考える必要はなくなる。もっともこの無背景ということも、論理的わきまえとしての無背景、私が私自身によって知ることのできる限界を誠実に定めたことによるそれであることを踏まえる必要がある。先天的ということが、肉体人生にとって先天的であるということでなく(そのような概念は真意識の部分でしかなく全体でないから)、このような現に成り立っている主観の自己実現があってしまっているところでは、という意味として理解される必要があるのであり、現在というものがむしろ過去未来包摂的であるという物の見方を踏まえる必要がある。無背景ということは、しかし単に形式的にそう発想されるだけで「理性」は満足するだろうか。理性は内的なものが外的に、外的なものが内的になるその渦のなかにあり、常に実在を求める。理性なるものが成り立つに至った実体的背景ということに思い至り、無背景というものが本当はどのような視座から理解されねばならないかということを明らかにしようとする思想がここから自ずから生じてくるのは明らかである。主観が真に自己自身によって認識するもの、認識の一切を与える統合的なものであるのは、世界そのものの、一目ではわからない深い統合的原理を、主観化したという背景があるからと考えることはできまいか。それは実際主観の実体化でなければならない。それはまた外的なものが内的に、内的なものが外的なものとなる渦である。しかしこの実体化をもって単なる実体化と捉えるとき、はじめから理性なるものは存在しない。理性とは自己を実体化しながらはじめから実体を超えたものでなければならない。すなわち一面、純粋に見るものにとどまり続けているのでなければならない。己の持続というものは、変化と不変そのものの一性、というよりも渦巻きにおいて実現するものでなければならない。それは単に、変化する私がいる、それを見ている私がいる、ということではない。それだけならば、精神活動にただそのような二層が固定的にカテゴリー化されてあると言うだけで済む。実際にはこの見るものが翻って見られるものとなり、ということはつまり見られたものが実は見るものであるということがなければならない。故に純粋主観は純粋に述語的であり、しかし述語的という仕方で結局主語的なものであるのでなく、これを言表しようとすれば、ただ純粋に理性の形式によってあると言うことしかできないのである。論理的同一性は、あらゆる実体的同一性(陰に隠れたそれも含む)から隔たってあり、いかなる矛盾的自己同一性もそれ自身において同一と言うことができるのである。論理的わきまえということの一つの長はまさにそういうことでなければならない。論理においてはあらゆる可能が可能として可能であり、そこに実体領域においては実現できない概念世界の長がある。と言ってもこういう言い方もただ単に比喩的なものに過ぎないので、論理というものの真の形式性を言い表したものでない。論理はいかなる内容にも引きずられず同一であることができる。それはただ形式性によってのみ成り立っているものであるためである。その内実が問われようとするとき、論理はこの行為も含めて、「あらかじめ」それが問われるものと同一のあり方であるとして己を創造的に(下から見ればだが)刻印する。つまり論理は他己包摂をあらかじめ包摂している。だからこそ、突き詰めれば形式化できない善というものがあるなかで、いかなる悪的なものも、単なる形式によってこれを許すのが論理的自己同一な立場である。実体の立場においてはかえって形式化された善があり、悪はこの形式を侵すものとして考えられる。形式的でないことをもって悪であると発想することはよくあることだが、そもそも論理においては形式的でないものは存在しない。それよりも真に形式化不可能なのは、知的原理によって還元され得ない善であるのではないか。形式の立場からはただこれを矛盾的自己同一と言えば済むことであるが、実体領域においてそれはどのように自己実現するか、単に矛盾というものをそのまま見せびらかすことはできず、実体には実体としての自己同一のテリトリーがあるのである。単なる形式から矛盾的自己同一を発想することはできるが、キリストの受肉を積極的に招く事態を考えることができない。倫理的なものが形式性に還元されることをもって最終的な立場であると理解されるなら、倫理の問題というものはそもそも起こりようがなく、世界はただ物理学的秩序によって悪無限的に自己展開するのみのものとなる。善を形式化するのはいかにも不善なことであると直知されるが、これをもってそのような形式が善の形式だと言い張ることはできる。しかし形式性は善においては本体ではなく(論理においてはそれが本体であった!)、むしろただ「使われるもの」に過ぎず、ここに善なる価値の知なる価値との根源的相違が見られる。これをさらに形式的に明らかにしようとするところに哲学の根源的悪というものが存在するのであり、こういう形式的納得を、あまつさえ倫理学の根源であるかのように混同しようとする向きがあるであろう。善には形式性がないのでなく、形式性が本体ではないからこそ、それは論理的なものでなく、純粋に精神的なものであると考えられねばならず、そのために実存は本質に先立つのであり、本質に先立つという形式があるでないかという論は単なる屁理屈に過ぎない。善においては形式とは単に使われるものに過ぎず、その実体をいかなる形においても最終的なものとして掴まえることはできない。倫理テストという思考実験のような「実践」があるのは、カント倫理学的な形式的立場の持つ、倫理的わきまえであると考えることができる。