山中臨死境

なんか哲学と呼びたいものを中心として自己はみ出し

悪包含的な哲学的闊達

哲学的闊達さの方が、陰湿な馴れ合いのスポイルよりも、どれだけ清々しいものか。それは悪を包むものである。そうであることを知らないからこそ、そのような最もナンセンスな方向にゆき、ナンセンスであること、あらを探すこと、揚げ足を取ることをもって、喜びとするほかない。しかしそのような喜びは、真に根底を持つものではなく、すなわち真の喜びから見放されたという深い実感からくる、負け惜しみと言うべきものであり、彼らは、何度このように指摘してみても、本質的で一番現実的なこの点に、気づきすらしない。哲学の問いは、全てのこのような悪的局面を含めてこれを包み、その全体をさらなる高みに持ってゆく。その運動においてあぶれるものはない。あぶれるのだと勝手に独り決めしてしまって妨害の方に専心するというのが彼らの行き方であり、私はその実性の虚無を感じる。本来哲学的問いは、全てのものに等しく与えられたものであるが、それは全ての者に一々神のようなものが、値の割り振りのように与えたものであるということではなく、全てこの世界に息するものが自動的に、悪にせよ善にせよぶち当たる、世界において自己存在のあることの不思議というなんでもなくしかし一番深い問いとして卑近な遠さとして与えられたものであるということである。彼らは私と問いを共有できる。この問いの前には、相手が成功するかどうかなどどうでもよくなり、真の共同は、どれだけ疑っても疑い得ない(ゆえに悪を包む)、唯一の根源的問いから生じてくるものであり、何故に悪なるものも、善なるものと、等しく存在「してしまっているか」ということが重要な問いとして置かれることになる。哲学的問いは、何度も言うが、全ての存在に共有されている。それは一つ一つの存在に割り振られることによって存在するのではなく、どんな形であれ存在してしまったものには根源的に与えられている、自己存在の根底を見つめる問いであり、いずれ全ての存在が直面しなければならないものであり、そこより他に実体というものは存在しないというものであり、もとよりこのような妨害の動機となるものに真の実体性はない。彼らもまた、ほかならぬ自己自身の問題としてこれに直面しなければならないのである。哲学は決して高尚なる一部の存在に与えられた特別な権利のようなものではない。そう思うからこそ、妨害というものによる危機を感じるのであり、妨害というものに対する実体性の幻夢を見てしまうのである。哲学とは理念的形式であり、妨害に屈してなくなってしまうようなそれは、いまだ限定された形式に囚われている。哲学の実体は、責任という意味では文章の内にも存在し得るが、それは本質的にはいかなる形式においても実現し得る。といっても何でもないチリに哲学を託すのは、ある面からは無責任と言える。それは悪を包むものでなければならないが、単に善悪不問というところにその真の意義があるのでなく、悪の積極的意義を明らかにした上で善悪が不問へとなってゆくことこそが真の善であり、禅者的悟りというのは、この点の自覚に、何か欠けたところがあるのである。哲学は、責任という意味では、悪を、その手前からではなく、その正面から、カビの根本から相手にしなければならないのであり、かといって悪なるものの用意する陰湿な空間に取り込まれてはいけないという難しいバランス感覚が問われる。要は悪なる彼らにも同じように問いを自分のものとして共有できればよいのである。そのためには、一般道徳というものはひとまず脇に置かねばならない。それを言ったところで通じないから、彼らは悪に惰したのである。一般道徳は、全ての人に共有されたものではない。それは洞察の不足を常に備えている。真の哲学的問いとその思索は、悪なるものが現実となる条件についての洞察を含んだものでなければならない。陰湿さというものを直ちに肯定するのではない、それがそもそも存在するようになった根源的な理由が知りたいのである。そして陰湿さのただなかにあるものにとって、それは己の存在を天に高めるために、そこに至るために必須の問いである。陰湿なものこそ、哲学的闊達さを己の衣としてまとうことが必須なのである。そこには真の意味での道徳性が、根底から彼の行動を動機づけることができる。それは限定された、寿命付きの、一般道徳とは性質が異なるものであり、実体としては端的な道徳性を得られないが、理念的には、常に道徳性の根底に結びつくものとして、根底性の問い直しの無限運動から考えられるものである。 

もともと真の善とは、悪を排除していった先にあるものではない。そのようにして至る善は、一般道徳的なものであり、その究極の境地といっても、すぐに行き止まりがある。むしろ真の善は、悪が、その問いを己の問いとできるところに生まれてくるものであり、悪を己の機関として運用可能であるところから生まれてくるものである。悪はここにおいて、肯定も否定もされず、単なる物理的性質によって乗りこなされるのである。いかなる観念的なものも、必ずそれが物理的性質を持つようになるポイントが存在し、このようなものを対象化してゆくのが心理学の仕事であると考えられる。我々は悪なるものの原動力を、単なる燃料にできるまで、徹底的に見つめる必要がある。彼らに哲学的闊達さを付与するためには、彼らが単なる物となる必要があり、彼らのその本質的な滑稽さにおいて見てゆく必要がある。悪なるものを自己の燃料とできるならば、悪による善の脅かしというものはもとから存在し得ない。書かれた文章の一貫性とか統一性という観点からは、こうした脅かしというものは、限定的な仕方ではあるが存在し得る。しかし、哲学とは本来無限定の形式においてあるものであり、限定的責任の文字を外せば、それは自在にして、根底的には、救いのあるものである。高いところに向かうのに、単純に悪を排除しなければならないかと言うとそうでなく、悪をその本性において見れば、悪の物質点というものが見出され、むしろこれほど使いやすいものはないと得心するのが真の善なる道である。ゆえに道徳的に高いと言われる態度や人は、どこか頼りない。外面上そう見える人でも、真に道徳的な人は、むしろ道徳的な振る舞いに価値を置いていない。彼はそこを超えたところに価値を見出しており、そのような根源的価値の、ある社会的局面における偶然の顕れがそのような形をとったということに過ぎないのである。悪は一般化可能である。善は一般化可能でない。ゆえに一般道徳と言われるものは、真に善であるわけではない。善の価値はその包含性にある。万人に公平に、分け与えられるべきものが分け与えられるということが善である。一般道徳というものも、その本来は、そうした性質によって成り立っていたものであると考えられる。だが一般道徳において善でないものが限定されるとき、善なる判断とされるものが、全ての人にとって平等に行き渡らないということが起こってくる。そのために悪は無価値なもの、訂正されねばならないものとして、そのものが存在そのものから否定される。わかりやすく言えばその生命の価値の否定であるが、罪を憎んで人を憎まずという立場においても、いまだその行為というものが存在否定されている。行為そのものにおいても、その悪なるものを生み出した根底というものが理解されることにおいて、理想的で概念的ではあるが、真の善なる立場が存在し得る。もとより、悪でない存在は存在しない。必ずその行為は、限定された慈しみしか持ち合わせない。ゆえに存在は、常に、根底的なものへの眼差し、問い直しというものを必要とする。この態度は、いかなる悪的なものにも等しく与えられた存在の存在としての根源的態度である。

悪というものを、ここに、正確に定義しなかった。それは常に、全存在の代表たるこの私への妨害という形をとる。しかし全存在の代表は、根底への問い直し的存在として常に相対的であり、したがってこれにまとわりつく悪というものも常に相対的なものであることになる。この全存在の代表たる私、の主語が大きくなるにつれて、すなわち集団的私というものが考えられるにつれて、悪というものはわかりやすく一般化される。さきに悪は一般化可能であり、善はそうでないと言ったが、悪が根底的には善的なものに結びつくと考えられる限りにおいて相対的であり一般的なものでないと考えられ、善とされるものも単に一般化の行き止まりを持つものと考えられる限りにおいてむしろ悪的なものと考えられるのである。一般道徳というものについて、わかりやすく一般化されるという点はむしろ悪的なものの定義としてふさわしいのであり、物理的性質の発見とその応用よって眺められる悪はむしろ善として活かされる。それは悪自身が、そこにおいて与えられたものを、自己のうちから湧き出たものとして理解できるからである。結果として、理想的には、悪なるものは、哲学的闊達さを持つに至るであろう。

相対化されるという方面をみればそれは悪ではあるが裏にそのままこれが物理的であるということを考えればこのような悪なるものの一般化はむしろ真善の自己実現のベースとして考えられることになる。真に不変のものは常に相対化されることを「自覚」しているものであると言うことができる。このような相対化を自覚しないとき、自己が相対化されないものと同じ格を持っているという実体的勘違いということが起こり、これが悪なるものの本質である。また妨害される側からも、このような真の認識が得られないとき、これがまた悪であると言うことができる。それは認識できない側も要するに悪的であるということである。だがこう考えたときに、そう認識できないのが悪いのだ、ということを言いたいのではない。悪というもの自体の価値が、悪が力を持っていたときよりも、軽くなっている立場からみればこそ、このようなことを言うことができるのである。同じ一般化、相対化の作用において、受動的に一般化されるという立場をみればそれが悪であり、積極的に相対化の自覚的働きを透徹して眺める立場が善である。このような意味での善悪とは理念的形式であり、したがって透徹という固定的立場に陥る者はかえって悪的なるものである。


Tips:とはいっても、ダメなものはダメと言わなければいけませんよ。悪を容認せよと言ってるのではないのです。見極めよと言っているのです。この態度からは、むしろ争いが起きることを避けなくなる。と言っても争いをせよと言っているのでもない。私の内に、この文章の立場を恣意的に悪意をもって理解しようとする勢力が感知されたために、急いで書き加えました。そういうものには断固として立ち向かわなければならない。キーワードは干渉性であり、つまり悪がいかに物理的といえど、干渉的である場合は、それは私の精神に物理的に深く巣食ったものであるので、これを積極的に払う、要するに真摯に怒るという働きが必要になってくるわけです。