埋め尽くすことではない。充実した空白が必要なのである。埋め尽くすことによって表面的な安心感は得られるのであるが。また埋め尽くすことが、事情上の至上命題となることだってある。いずれも宗教的事情によるものと考えられる。その根底に何を置くか、空白か、埋め尽くしか、それによって宗教の個性は変わるが、ともに充実を志向している点では変わりない。充実をただちに埋め尽くしだとするのが独断的なだけであって、その本来の充実さには、内容の限定がなく、しかし主体が自ずから求める内容の差異があるばかりなのである。別の観点からは、空白を内容とは呼ばないのかもしれないが、空白とは包括するものであり、無内容というよりは包内容的なものであると言うことができる。それ故に、そこからは脈動のように、「内容」が現れてくることができる。内容のもとを無と言う。逆に、埋め尽くしは、それ自身無心を生み出し、安心という空白を作ることになる。例えば幾何学模様の反復ということは、何かそういうありさまを思い起こさせる。埋め尽くしは、一つの包括的質感を生み出すことで、内容を意志的に包括する。エックハルトも我々の存在をその無において捉えた。
科学は、埋め尽くしによって、意志の通り道を開くものと考えられる。この観点からは、瞑想も、技術的なものとして、科学として捉えることができる。