山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

感情の持つ情報量についてのメモ。西田幾多郎の「場所」概念への眼差し

感情は、情報にすればとんでもなく多いそれを有している。では感情には、横並び並列の形で情報が格納されているかというと、間違いなくそのような形で直接感情のなかに情報というものは存在しているのではない。ではなぜ感情のような、明らかに異なるあり方が、膨大な情報的なものに相当するかと言うと、それはよくわからない。だが諸情報を包むものはいつでもシンプルな概念であるということがここから想起されてくる。シンプルなものは直接掴まれるのであり、膨大な情報に逐一目を通すだけでは、この場所に至ることはできず、なぜかこれは繰り返し言うがシンプルな概念として、あるべき場所に存在している。だが膨大な諸情報を無視することによっても、それは掴まれ得ない。それは展開すれば必ず膨大な諸情報の並列が得られるという特性を持っている。では展開とはどのような作用かと言うと、この感情的シンプルさが、環境とぶつかるときに成り立ってくる、様々な結果としての形が得られるような、そのようなあり方のうちに考えられるものである。展開作用は、環境とぶつかって様々な角度からその裂け目のようなものがむき出しになってくるものを得る、そのような作用である。もともと感情というものも環境を無視してあるのではなく、環境とぶつかる予感を背景にして存在し出してくるものである。ただここで感情と言っているのは、全ての感情を含むそれと言えるのかは、まだ確定できない。*1ただ感情とは常に全体性に対する反応であるとは言えよう。それは常に包括するものであり、ただし客観的に包括するというよりも、反応として主観的にくるむというあり方として語られるのが適当である。考えてみれば客観的に包括するということも、実はなにがしか感情的なものでもあると言うことができる。反応というあり方一般が、その外的面では限定されたあり方ながら、その内的面ではあくまでも全体的なものであるということは注目されるべきである。それは表現作用というものにやがてつながってゆくあり方である。単なる反射的反応というのは、表現というあり方の最も原始的な形と考えることができる。しかし反応そのものを深め、熟し、体系化することにおいて、真に表現と言われるべきものが成立することになる。主観的なものの自覚化、体系化というものこそが感情を感情のまま存在させ、さらにそこから適切に膨大な情報を取り出すことのできる真なる表現の方法であると言うことができる。感情の客観化というあり方が、環境との繊細なぶつかり方を生み出し、環境そのものの持つ感情的含蓄をより繊細に絡め取りながら、それらとのバランスを繊細に保ち、結果としてより大なる包括的概念として自己を提示するということになる。通られてきた様々な感情が、この大きなシンプルな感情によって包摂されると言うことができる。



メモのメモであるが、西田の、「述語となって主語とならないもの」というのは、こうした思考をきっかけにして私なりに解釈できる道があるのではないかと考える。

*1:私がここで感情と言っているのは、どちらかと言えば「閃き」の概念に近い。