本来曖昧であるままのものがそれとしてその存在性を確定的に与えられることを直証と言うのではないか。私は原子というものをその例に挙げたい。なぜか原子の直証においては、その直証性は端的な客観的なものとされる。原子の直証というのは、なるほどそれは直接の知覚によるのではないにしても、直接の知覚におけるマクロ的事実に結局のところ直結していなければ、いくら数学的衣によってその間の事情が覆い隠されていたとしても、それがそれとして確かな存在性を与えられることはない。なぜなら、純粋なミクロ的立場からすると、原子というものの「それ」としての存在性は端的には与えられないからである。そこに数学的当てはめを可能にするところの適切な「みなし」の枠を、我々の精神やどこまでも内的な空間そのものと直結する形で(宮の沢駅とさっぽろ駅が結びつくくらいの感じで)、そのすみずみまでの縦組織の構成のされ方が直観された上で、原子というものがあくまでもミクロ的なものから構成されたものであるということまで含めて、設定することによって、我々はこの原子というものを知らなければならない。原子というものを知るのに、原子の位置にかかわる全てすなわち我々のどこまでも内的な空間からどこまでもミクロな外的事象に至るまでも、知らねばならない。数学というものがむしろどこまでも内的なものでありながら、一番外的なものを説明する端的な道具となり得るのも、そもそもあらゆるスケールでの直証的位置というものが、必ずこのような手続きを踏んだ上で直覚されねばならないからである。この手続きには主観性が残る。しかしこの主観性なくして物理的実在への数学的当てはめということの一切は可能でないのである。そして主観性を排し得たことの根拠として数学的手続きによるものであるということを挙げるのならば、我々は主観性というものの驚くべき客観性にまず驚かねばならないのであって、客観性というものが単なる主観性の否定の上に立つものではないことを、そのような態度はかえって証明している。原子というあり方に数学的手続きを持ち出すことがそもそも可能であるという直観は、純粋ミクロの立場が仮に純粋数学そのものと一体であるとみたときに、どうやって出てくるであろうか。純粋ミクロというものが、直接、マクロすなわち原子をはじめとして有機物、観念、内的空間などといったものを全て知っているのでなければ、そもそもこういう原子の「原子」という直観そのものが不可能なのである。そしてそれは数学というものが、あらゆる次元と一体であるのでなければ不可能なあり方である。ただしここでは数学というものが、客観性のあらゆるあり方の唯一の根拠であるとして語っているのである。実際数学というものは、どこまでも直証的なあり方に基礎を持つ。直証とは、本来曖昧なままであるものがそれとしての存在性を確定的に与えられることである。それは純粋創造の論理的純粋構成でなければならない。数学のそれ自体性は、数学において包まれるあらゆる立場・次元すなわち環境や内的空間や諸観念や感情や有機物や分子といったものの根底的な根拠になると考えられる。だから内的空間というものが数学と切り離され、物理学的実在の客観性の正当性を一方的に保証するというようなものではないのである。数学における直証的側面を見てみれば、それは内的空間における事実を直接根拠づけるものとなる。数学が必ずしも数に頼らず、むしろどこまでも論理学的に、集合論的になりゆくにしたがって、数学そのものの内的空間性というものへの「当てはめ可能性」は上がったと言い得る。実際内的プロセスはどこまで行っても数学的な側面を持たねばならず、むしろ数学的あり方に主導されているのでなければならない。しかしそれは現状の数学的成果が対象的にそうしていると言うのではなく、現在の数学的営為にも含まれていて未だ掘り下げきらないあり方、すなわち「将来数学」とでも言うべき立場において、根拠づけられることがらであると言えるのである。私はAIが感情的表現を擬似的にでも行うことができるようになったということに、この点からは大いに意義を見出す。そこにおいては、未だにそれに関連する数学的理論において、感情の対象面的プロセスしか自覚的に捉えられていないのであるが、そもそも確率論的あり方というものそのものを内的に掘り下げてゆけば、つまりその使用、その技術性から離れて純粋に理論的に深まってゆけば、それは感情そのものの実体と直結するような何かに辿り着くと私は考える。そして必ずそうでなければならない理由は、そもそも現在においても、数学的当てはめというのが、内的空間からはもっとも離れた外的事象においてなされる上で、一旦内的空間を通らないと、そこに行けず、しかも現にミクロ事象の数学的当てはめが、技術的にといえど成功しているということがあるからは、すでにそこに内的空間への無自覚的な正確な直観が介在していなければならないからである。つまり外的なものにおいて数学が正確にそれを説明できた時点で、すでに内的なものは数学がこれを通過しているのでなければならない。通過しているのであって、スルーしているのではない。無自覚的にすでにそれを正確に説明できてしまっているのである。しかしそれは現在の脳科学におけるような唯物的な仕方ではない。どこまでも深く心理的、霊的次元を包んだ、真に総体的な事実性においてそうなのでなければならない。
あるいは、全ての事象は、曖昧であるべきとも言い得る。ミクロの果てに、我々は確かに曖昧の入り口を見出したのである。ところがそこには数学的正確さが同時に重なって存在する、というよりも数学的正確さそのものがこの事実を覆っている。しかしそういう意味においてすでにそれは曖昧でない。だから真に曖昧と言える領域がその奥にまだある。それぞれの次元におけるミクロ的事実というような言い方を私はしたが、そもそも原子というミクロへの気づきそのものも、この根源的な曖昧さから数学的に切り出された直証的事実である。それは物自体において、曖昧なのであるが、数学という内的事実性の純粋論理的構成の学問において、つまり主観性それ自体による客観性、主観性によってしか与えられないところのものである客観性という視座において、直証的に、どこまでも科学的に厳密な存在性を獲得することができているのである。我々の世界に存在し得る限りのあらゆる幻想すなわちこのような実在的曖昧さ、原子をはじめとするそれらの諸々のものどもは、結局は、深い意味での数学的直証性によって、確かな位置、確信的な実存を与えられられ、それを受け取る機関が心であると考えられる。本来意識とはこうした見方に立つことから考えられるのであって、心というものを、かえって構成された限定的な形、流れてゆく形のうちに見て二次的に再構成するということをやってのけてしまうから、その本質というものが真に見極められないが、そもそも心の存在論というものを低い位置から物理的に構成するという見方自体は、意識というものに「世界現象」のあらゆるものを逃すまいとする謙虚な態度として評価されるのであるが、この謙虚さは、むしろ我々がミクロとして片付ける非肉眼の領域においてすでにそれが意識的あり方と呼ばれねばならないものによってその「存在性」自体があるのだということを理解する立場から捉え直されねばならない。原子というものに、あらかじめ存在性があるという幻想に我々はすがるからこそ、こういう物質の世界に重なって存在するところの「意識」というものが、はて、なぜ存在できたのか、というような問題に悩まされることになり、しまいに、原子よりもマクロの次元において大きめのスケールの世界で構成された脳的構造にその根拠を求めるという不自然な結論に至ることになる。この問題の正体は、原子の存在性そのものが、実在の観点からはまだそれだけでは曖昧であり、存在性としての存在性を与えるものの存在が原子の「存在」の時点で、つまりその結合や働きのありようの時点で、前提されていなければならないということを考えることにおいて、はじめて明らかになってくる。しかし意識以前、少なくとも我々のこの肉的意識以前に、原子が客観的に働いていなければ、そもそも肉的意識の存在すら不可能ではないかと言うのなら、そもそも意識というものが、その原子というものの見かけ上の客観性の作動よりも以前にすでに働いていたことの証拠となる。我々は原子的なるものの自己運動を見ることにおいて、原子というものの客観的な働きや存在そのものを成立せしめているのであって、ここにカント哲学の画期的な発見の、カント自身もおそらく自覚していなかったレベルでの意義がある。前にも論じたが、観測機器というものが、それ自身本当に純粋なミクロ、それ自身が量子論的な存在性によるのでなければ、いわゆる量子論の観測問題というのを、我々の肉的意識による観測の問題として考えていることと、実は本質的に変わりはない。原子のレベルですでに我々は、ミクロではないもの、構成的なもの、幻想的なもの、観念的に構築されたもの、こういうあり方に直接触れているのである。真の存在性、それ自体としての実在的存在性とは、曖昧概念の真自覚、矛盾的自覚に基づいて得られねばならない。だから数学が真にそれ自体性を獲得するには、矛盾的自己同一的な論理を基礎におく、論理学を構築する必要がある。