山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

例化尖端としての認識者についてのメモ

例化尖端としての認識者。諸概念の抱き合わせとして外延が成り立つ。内包は概念がシンプルになる方向にある。エアコンに対しての、何か空気をコンディションするもの、大抵白であるもの、などといったように。エアコン概念はこれらシンプル概念どもの抱き合わせとしてあるという意味で、シンプル概念から見ての外延という意味を持つ。

要するに外延とは現実化の方向にあるために複雑な抱き合わせとしてあるものだが、内包とはシンプルなランナーズハイのようなあり方としてある。ランナーズハイとは現実の観念化である。観念が具体的であるほどそれは思考と呼ぶのにふさわしいものとなり、ここに至って観念が現実であり現実が観念であると言うことができるものとなる。この方向に行為的直観というものがある。思考を行為として捉えるそして遂行するということが思考の本来の使い方でありまた観念の本来の収まりどころである。これによって即物的に収まるということが全体性的に治まるというあり方になる。

具体的な犬といえど、単に個体としての具体的な犬が考えられるだけでは、実はそれは概念と現実との区別はつかない。例えば一つの言い方として、犬は歩き、歩いたことが認識されることにおいて現実のものとなる。しかしこのような言い方をしたときの規定がただそれだけでは犬の外延を意味するわけではない。なぜなら認識とは実際行為でなければならないのだから、単なる認識それ自体というものがあるのではない。つまり行為的直観的な着地点において、概念は外延を持つのであるが、そう言うことが可能であるということは、ふつうに単に概念的なものとして考えられるものも、行為的直観においてそのまま外延であることができるということである。具体的な犬の個体はむしろこうした意味合いから外延と呼ばれることができる。それは行為を含んでいる。行為を含んでそれをそのまま行為という場所によって理解するのでなく、その含みをそのまま犬なる言表にあてがうときに、犬の個体という外延が成り立つと考えることができる。我々の自然言語はこの間の事情を曖昧にするようにできており、高度に文脈依存的にできているから、言語とは単語・意味が一対一のものとしてではなく、あくまでも表現的なものとして考えられるのである。ただ発話というあり方は基本的に現実そのものを表していると考えられる。しかし同時に発話によって企図されるところのラングというものは、常にそれ自体不完全な概念すなわち現実になり切れない観念の意義を持つと考えられる。ラングがどうにか現実的であることのできるための原理は、言語の通時的な体系的変化というあり方そのものにある。これを抜かした静的構造とはかえって存在せず、静的構造が生きたものとして静的構造であることができるのは、かえってそれが体系的に変化しゆくものであることによってであり、かといって単なる喃語や感嘆詞というものが言語の現実化を根底的にサポートするものでないように、発話というあり方も、それが現実的であるためには体系的なあり方を前提する必要がある。体系とは、それが表現的に現れるとき、諸概念の抱き合わせという意味を持つのであり、その概念の包括性は現実化すなわち行為的尖端に基盤を持つ。ここから除外して対象的に考えられる包括概念は、それをいくら個性的にしてみても、真の現実概念には至らず、また個性的でないように考えられる概念も、ここに基盤を持つ限り、真に現実的な現象であることができる。ただし自然言語の規定するところにより、一定の「現実層」「概念層」というものがあり、普通の論理学も、その具体的分類の仕方としてはここに依っているのである。犬の個体を現実の個体と考えるのはまさに自然言語の規定であり、また生物的身体的還世界の規定する認識機構の仕組みに基づくものである。