山中臨死境

統合失調症です。格闘の記が主となります。不謹慎ですが、あまり気を遣わないでください

「起源」があるという直観のそもそもの不思議さについて

なぜ起源の存在を、起源そのものの場所ではなく、起源から離れたこの場所において直知できるのか。それが概念の不思議である。現に私は宇宙のはじまりというものがどうしてもなければならないことを、この中途半端な時の場所において概念的に直知できてしまっている。実はこの直知にこそ、実在の起源そのものが存在しているのだとしたらどうであろう。すなわち起源が離れたところにあるものとして、この今それが生まれるのである。ゼロは一に先立つものとして、一が立つときに生まれるのである。述語的なものは主語的なあり方でないが故に時の起源に時の起源としてのつまり一方向的な束縛を受けない。述語的な時の起源は時という概念を超越する。しかし時というものがないのではなく、主語的なものからみれば起源の資格を持つものとしてそれは存在する。それは起源であり時の終末でもあり、すなわち時に限定されないものであり、かといって単に時に没交渉的なものでなく、かえって時を作るものである。そして主語的なものが立たねば述語的なものも存在しないということは、単線的な時というものが存在しなければ、時というものを超越したものも存在し得ないということである。時において限定されることにおいて、我々は時を超越するのである。単線が単線としてあるということは、単線がそれ自身においてすでにこれを超えた含蓄を持っているということである。ここを抜かして直接超越的なものに触れることはできない。それは単線がすでにふた分かれであるということを意味してもいる。単線が単線でありながら、ふた分かれなのである。単線は一方にねじ曲がり(すなわち時を超え)、一方に単線のままであるということがなければならず、しかもその両者は端的な自己同一である。

計測される時間というものがいかにも実体的な時間として考えられ、この概念の前には、上に述べた脈動としての時間は単に主観的なものに過ぎないように思われる。すなわちこのような計測される時間が、直接「それ自身であること」において、ねじ曲がるものであるのではないかのように思われる。なぜなら、それは客観的に誰が見ても疑えないような印が付くからである。しかし物理学においても、我々が一般常識として知ることのできる知識の範囲でも、すでに時はエネルギーであると言われている。物理学的時間において時間とはすでにエネルギー的なものであるならば、時間とは主語的なものでなく、その本性述語的なものであることにならないだろうか。では客観的な、誰にとっても疑い得ない印というものの客観性はどこにあっただろうか。それは結局はほぼ無意識的な各存在間における(鉱物的生命などを含めた)「同意」によって成り立つものだということができないだろうか。すなわち時の実体性は機械性にではなく、各存在の直接意志にその根拠を持つのである。そうであってはじめて時はエネルギーであるとも言いうるのではないか。エネルギーというものを客観的なもののうちに直知できるのは、客観的なものそれ自身が主観性にはみ出していることを内的に理解するがためである。そしてこう考えるとすれば、各存在の同意のなかだちとなるものが純粋客観的に考えられねばならないが、しかしそれは単に外的なものでなく、主体に内的なものでなければ意味をなさない。主体に内的であって純粋客観的な意義を有するということは、主観に直知的であるということでなければならない。どこまでも主観的であるあり方が唯一の客観的なものとなるのであり、それは意志の純粋直線としての時の単線であると言うことができないか。述語的なものがそれ自身によって客観的なものであることのできる形式は意志であり、まずはここにあらゆる客観性の端緒をみてとることができる。意志とは全ての存在の合意によって成り立ちその本性どこまでも霊的内的公共的なものなのである。単なる物は同意なくとも存在しうるが、意志はその存在のはじめにおいて全存在の内的承認を経ている。単なる物が承認されるのは、それが作られてからあとであってもよく、またあるいは、この時点ですでにその物が承認されていると言うならば、それはそれが意志の資格において理解されているからである。時の機械性もこの意志の初源自己展開に起源を持ち、単線が単線でありながらねじ曲がる方向と単線であり続ける方向の矛盾的自己同一のうち後者の方向に注目するとき、このような概念は生まれ、また結果として技術的に運用されている。天体間の運行から時を設定するというのも、天体がもともと意志的存在であるということから可能なことであり、また大日月地神示において「宇宙にも季節がある」と言われていることはこのようなことがらの真実性を示唆している。時を媒介して意志的なものは自己表現する。時は意志的なものの自己否定の形式であり、それらは即一であり矛盾的自己同一である。時の形式はそれ故に、どんな局面においても覆い被さる。我々の地球時間を超越したあり方においてもまた時の単線はここに覆い被さり、行為の機関として時は働く。すなわち行為は意志の直接表現だが、時の「前後」がなければそれは己を己としてあらしめることすらできないために、自ずからそうなるのである。だが時間はその性あくまでも述語的なものが根底であるので、すなわち根底でない根底というものであるがために、本質的には機械的な時間を以て時間の最終のものと言うことはできず、そのことの一つの証左として、それがエネルギーとして理解されるということがあるのである。タイムスリップというものが可能であるにしても、「行為」の前後という時の形式はこれを否定することはできない。

時は現在を起点にして生まれるというのは、時が意志から生じることと一つである。そしてそれが単に現在的なものであれば、意志そして行為の前後性というものを理解できないために、時とはこの現在においてのみ生まれるものながら、そこにおいてまさに無限の過去と未来を持ったものとして存在することになり、時系列というものが成り立ち、我々の現在はその中におかれその単なる部分として存在することになるのである。これを乗り越えるのもまた意志の力であり、意志によって定められたものを乗り越えるのは、同じまた意志によってでなければならないのである。直知されるように、時が世界の全てを覆うということは、意志というものが世界そのものの承認を得て成り立つものだということと一つである。自由意志とは、根源的に制約されているがために、根源の許しの名を以て自由となることができるのである。意志の客観面を時と言い、時の主体面を意志と言うのである。

ちょっとまだモヤモヤしているが、それについてはまた後日考えてゆくとして、今日はここまで。